![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/e8/ac0fa693f1326241be1d5f3f6769c21a.jpg)
「益田池堤跡」を見て、さらに西へ。
左手前方に丘陵が迫ってくる。
この丘陵の中は、饅頭型をした古墳の集合体「新沢千塚古墳群」。
今は木が繁り、外からその古墳群の姿は見えにくい。
この道は、我が家から母の実家へと向かう道だった。
私が車の免許をとると、母の里へ行く時は、私 の運転で助手席に母を乗せてとなった。
母はこの場所を通る度に、「新沢千塚」の思い出話を語ってくれた。
母が女学校の頃、戦争がはじまると授業は中止、学徒動員で毎日が勤労奉仕になったそうだ。
葛城山麓にあった女学校に集合し、毎日かなりの距離をここまで歩いて来たのだという。
当時、この丘陵の中には軍需工場があり、兵隊さんの服?を作っていたのだという。
「学校で勉強したかったのになぁ~」
「苦しい時代やったなぁ~ 食糧難やし、着る服も満足にないし・・・」
「なぁ~んもエエことなかったわ・・・」etc・・・
私は運転をしながら、助手席に母を乗せているような気がしてならなかった。
※新沢千塚古墳群
総数600基からなる4世紀終末から7世紀にかけての古墳群で,日本でも代表的な群集墳である。遠くペルシャから運ばれたと思われるガラス器と黄金色に輝く装飾品や多量の武具・馬具が出土している。造営主は大伴氏あるいは渡来系族の漢(あや)氏ではないかと推測される。
「写真;新沢千塚古墳群」
左手前方に丘陵が迫ってくる。
この丘陵の中は、饅頭型をした古墳の集合体「新沢千塚古墳群」。
今は木が繁り、外からその古墳群の姿は見えにくい。
この道は、我が家から母の実家へと向かう道だった。
私が車の免許をとると、母の里へ行く時は、私 の運転で助手席に母を乗せてとなった。
母はこの場所を通る度に、「新沢千塚」の思い出話を語ってくれた。
母が女学校の頃、戦争がはじまると授業は中止、学徒動員で毎日が勤労奉仕になったそうだ。
葛城山麓にあった女学校に集合し、毎日かなりの距離をここまで歩いて来たのだという。
当時、この丘陵の中には軍需工場があり、兵隊さんの服?を作っていたのだという。
「学校で勉強したかったのになぁ~」
「苦しい時代やったなぁ~ 食糧難やし、着る服も満足にないし・・・」
「なぁ~んもエエことなかったわ・・・」etc・・・
私は運転をしながら、助手席に母を乗せているような気がしてならなかった。
※新沢千塚古墳群
総数600基からなる4世紀終末から7世紀にかけての古墳群で,日本でも代表的な群集墳である。遠くペルシャから運ばれたと思われるガラス器と黄金色に輝く装飾品や多量の武具・馬具が出土している。造営主は大伴氏あるいは渡来系族の漢(あや)氏ではないかと推測される。
「写真;新沢千塚古墳群」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます