雄略天皇「矢刺神社」御猪狩遺跡から木立の向こうに「葛木神社」が見えた。
この神社は貝原益軒の「南遊紀行」 にも登場し、もちろん一言主大神を祀っている。
710年(和銅3年)には奈良朝初代の女帝、元明天皇も登幸したという。
私は,神社や参道にあった灯籠の紋が気になってしかたない。
我が家の家紋が単純すぎるで、この紋が大好きなのだ。
金剛山を大阪側に下ると千早赤阪,楠木さんとの関係か・・・
歴史とロマンを感じるよなぁ~
赤い木製の灯篭が並ぶ杉並木を少し下ると,「転法輪寺」が見えてきた。
私がこの境内で一番気になるのは,「金剛練成会員1000回以上登拝者名」と書かれた大きな看板。
つまり,何回金剛山に登って拝んだかの一覧表?ス コアボード?
最高回数の人は10000回以上というランクに平野さんという名前が1人あった。
次の人は9000回以上に岡田さん。8500回以上が2名で内女性1名。
毎日金剛山に登る人がいると聞く。
1日に2回・3回登る人がいるとも聞いたことがある。
10000回と言うことは,毎日1回欠かさず登ったとして27.4年か・・・
このボードに名前を載せてもらうには,毎日1回の登拝を3年続ける必要がある。
これが現代版・修験道ということなんやろか・・・
※葛城修験道のこと
昔々、日本では山は神様の住むところとして恐れられていたようだ。
この山岳信仰に仏教の行脚や道教の入山修行が影響し、奈良時代になると山にこもって修行する人達が増えてきた。
修験道の開祖と言われている役小角は、この金剛・葛城山系にて修行し、全国に広めていったという。
平安時代になると修行者はさらに増え、空海の導きによる密教系の人々も山岳修行にはげみ,さらに平安時代の末期になると、修験道は密教や道教、陰陽道の要素をも取り入れ独特のものとして完成していったようだ。
葛城修験道の行場とは、和歌山県加太町の沖、友が島から和泉葛城山ー牛滝山ー岩湧山を経て金剛山頂に至り、さらに北に折れて今の葛城山ー二上山ー亀の瀬に終わるもので、この間の里程二十八里、二十八の行場と二十八の宿場、二十八品の経塚があり、「転法輪寺」はその総本山であったというが,明治維新の「廃仏棄釈」で廃寺となった。
昭和25年役行者1250年忌に再興事業が始まり、現在の場所に昭和36年落慶された。
「写真;金剛練成会員1000回以上登拝者名」
この神社は貝原益軒の「南遊紀行」 にも登場し、もちろん一言主大神を祀っている。
710年(和銅3年)には奈良朝初代の女帝、元明天皇も登幸したという。
私は,神社や参道にあった灯籠の紋が気になってしかたない。
我が家の家紋が単純すぎるで、この紋が大好きなのだ。
金剛山を大阪側に下ると千早赤阪,楠木さんとの関係か・・・
歴史とロマンを感じるよなぁ~
赤い木製の灯篭が並ぶ杉並木を少し下ると,「転法輪寺」が見えてきた。
私がこの境内で一番気になるのは,「金剛練成会員1000回以上登拝者名」と書かれた大きな看板。
つまり,何回金剛山に登って拝んだかの一覧表?ス コアボード?
最高回数の人は10000回以上というランクに平野さんという名前が1人あった。
次の人は9000回以上に岡田さん。8500回以上が2名で内女性1名。
毎日金剛山に登る人がいると聞く。
1日に2回・3回登る人がいるとも聞いたことがある。
10000回と言うことは,毎日1回欠かさず登ったとして27.4年か・・・
このボードに名前を載せてもらうには,毎日1回の登拝を3年続ける必要がある。
これが現代版・修験道ということなんやろか・・・
※葛城修験道のこと
昔々、日本では山は神様の住むところとして恐れられていたようだ。
この山岳信仰に仏教の行脚や道教の入山修行が影響し、奈良時代になると山にこもって修行する人達が増えてきた。
修験道の開祖と言われている役小角は、この金剛・葛城山系にて修行し、全国に広めていったという。
平安時代になると修行者はさらに増え、空海の導きによる密教系の人々も山岳修行にはげみ,さらに平安時代の末期になると、修験道は密教や道教、陰陽道の要素をも取り入れ独特のものとして完成していったようだ。
葛城修験道の行場とは、和歌山県加太町の沖、友が島から和泉葛城山ー牛滝山ー岩湧山を経て金剛山頂に至り、さらに北に折れて今の葛城山ー二上山ー亀の瀬に終わるもので、この間の里程二十八里、二十八の行場と二十八の宿場、二十八品の経塚があり、「転法輪寺」はその総本山であったというが,明治維新の「廃仏棄釈」で廃寺となった。
昭和25年役行者1250年忌に再興事業が始まり、現在の場所に昭和36年落慶された。
「写真;金剛練成会員1000回以上登拝者名」
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