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先日,奈良県と大阪府の県境,葛城山と金剛山の間にある「水越峠」を越えた。
奈良県内の方が道路整備がすすんでいるんやろ か,峠を越えて大阪府に入ってからの下り坂の運転に神経を使った。
道路の左側に神社らしきものが見えた。
道路横の看板を確認すると「建水分神社」とある。
たしかこの神社,楠公さんと関係があるはず・・・
しかし,車を停めるスペースが発見できない。
車を停める場所(Uターンできる場所)を探しているうちに,どんどん離れていってしまった。
仕方がないので,「建水分神社」を後回しにすることに。
取りあえず,道の駅に車を停めることにした。
道の駅の隣りにあったのが「楠木正成誕生の地」。
これは,参拝しなければ・・・
楠公さんの前半生は,ほとんど不明やと聞いてたんやけど???
なにせ,1300年頃の話,700年も前のこと・・・
「楠公誕生地」にお参りして「下赤坂城」へ行こうと 駐車場から車を出したら,道路の横に「正成産湯の井戸」の看板発見!
また道の駅の駐車場に車を戻して見に行った。
我が家の近所で「誕生地」や「産湯の井戸」が残っている歴史上の有名人物は,「藤原鎌足」。
鎌足は,楠木正成よりもずっと前の人物や・・・
「藤原鎌足」と先日訪ねた和歌山九度山の「真田幸村」,その中間に「楠木正成」という人物が(歴史的にも人間 的にも)位置しているような感じがした。
※楠公誕生地
楠木正成は永仁2年(1294)、この地に誕生したと伝えられている。永禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命をうけ、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅を移植したという記録が残っている。また、元禄年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後、明治8年、大久保利通が楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰した。 碑文の「楠公誕生地」は、幕末勤皇派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠官であった桃井春蔵直正の揮毫によるものである。
「写真;楠公誕生地」
奈良県内の方が道路整備がすすんでいるんやろ か,峠を越えて大阪府に入ってからの下り坂の運転に神経を使った。
道路の左側に神社らしきものが見えた。
道路横の看板を確認すると「建水分神社」とある。
たしかこの神社,楠公さんと関係があるはず・・・
しかし,車を停めるスペースが発見できない。
車を停める場所(Uターンできる場所)を探しているうちに,どんどん離れていってしまった。
仕方がないので,「建水分神社」を後回しにすることに。
取りあえず,道の駅に車を停めることにした。
道の駅の隣りにあったのが「楠木正成誕生の地」。
これは,参拝しなければ・・・
楠公さんの前半生は,ほとんど不明やと聞いてたんやけど???
なにせ,1300年頃の話,700年も前のこと・・・
「楠公誕生地」にお参りして「下赤坂城」へ行こうと 駐車場から車を出したら,道路の横に「正成産湯の井戸」の看板発見!
また道の駅の駐車場に車を戻して見に行った。
我が家の近所で「誕生地」や「産湯の井戸」が残っている歴史上の有名人物は,「藤原鎌足」。
鎌足は,楠木正成よりもずっと前の人物や・・・
「藤原鎌足」と先日訪ねた和歌山九度山の「真田幸村」,その中間に「楠木正成」という人物が(歴史的にも人間 的にも)位置しているような感じがした。
※楠公誕生地
楠木正成は永仁2年(1294)、この地に誕生したと伝えられている。永禄年間に増田長盛が豊臣秀吉の命をうけ、土壇を築き、建武以後、楠木邸にあった百日紅を移植したという記録が残っている。また、元禄年間には、領主石川総茂が保護を加え、その後、明治8年、大久保利通が楠公遺跡めぐりの際、ここに石碑を建立し顕彰した。 碑文の「楠公誕生地」は、幕末勤皇派の三剣豪の一人で、当時誉田八幡宮の祠官であった桃井春蔵直正の揮毫によるものである。
「写真;楠公誕生地」
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