大和浪漫

私、瓜亀仙人が奈良・大和路の社寺や自然、生活の様子などをお伝えしたいと思います。

森本六爾

2010年03月19日 | 桜井市
桜井市埋蔵文化財センターの前で道路は,奈良方向(北;大神神社大鳥居と反対方向)に2つに分かれている。
左(道なり)の道幅が広いのが国道169号。
斜め右の道幅が狭く集落の中を通って行くのが「上ツ道」。
「上ツ道」は,奈良から桜井を経て明日香へ通じていた古道の名残である。
平安時代以降は初瀬詣への道になった。
近世には「上街道」と言われ、関西からあるいは伊勢参りの参詣者が大和、京、大坂とさらに足を伸ばすときの通り道となった。
国道169号を北へ200mほど行くと,道路の右手に「三輪そうめん 池利」の建物が見えてくる。
美味しい素麺が食べられる「千寿亭」がそこにある。
「三輪そうめん 山本」の建物の道路をはさんで前にJA(農協)の建物。
その敷地の北の端に「森本六爾夫妻顕彰碑」が建っている。
弥生式土器の底から籾痕が見つかった話やったけ?
さらに国道を行くと右手に卑弥呼の墓とも云われる箸墓が見えてくる。
箸墓の西まで歩くと,「三輪そうめん 山本」の「三輪茶屋」が道路の右手にある。
(「上ツ道」を歩くと,箸墓の東側を通りマキムク遺跡へ)
大神神社二ノ鳥居左の「森正」,そして「千寿亭」「三輪茶屋」と紹介したけど,私がいろいろお世話になったお店は,大神神社二ノ鳥居の右にある「福神堂」やろかなぁ~。

※森本六爾
日本のアマチュア考古学者として最高の業績を残した方。1903年(明治36)に奈良県桜井市に生まれた。「東京考古学会」を結成し雑誌『考古学』発行。昭和8年その当時の学界でどの学者も考えなかった「弥生時代に稲あ り」という考えを『日本原始農業』という論文集として発表し、学界に一大センセーションを巻き起こした。しかし、生前この考えは誰にも相手にされなかった。1936年(昭和11)わずか32歳という若さで死去。しかし、亡くなられて10ヶ月後の昭和11年に奈良県の唐古遺跡の発掘調査がおこなわれ,森本夫妻が命がけで追求してきた「弥生時代に稲あり」という考えが実証された。そして、弟子の藤森栄一、小林行雄、杉原荘介らによってその考えは受け継がれ、現代日本考古学の父ともいわれるべき存在となった。松本清張の小説『断碑』のモデルになっている。
「写真;森本六爾夫妻顕彰碑」

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