高見登山口の看板には“旧高見越え伊勢街道”の表示があった。この登山道は山頂との中間地点の小峠までの間は、旧伊勢南街道又の名を紀州街道と呼ばれ、紀州、大和、伊勢を結ぶ塩・ 米・魚の交易路で、かつては伊勢参宮の道であり又紀州徳川家が参勤交代に利用した。特に夏季は大峰山、年末には年末参りで栄えたという。
3月中旬、小峠まで登ったところで、“本居宣長”の歌に出会った。
“本居宣長”の名前の左側は『紀見のめぐみ』と修正、上書きされていた。彼が伊勢・松阪の生まれとしか知らない私には“高見山”との関係が分からない。私にとって伊勢・松阪は大好きな潮干狩りをする場所。その時はいつも国道166号を高見峠のトンネル抜け、松阪の海目指して走っているのだ。
小峠からは伊勢街道と別れ、急に険しくなった登山道を山頂目指して頑張った。山頂からの眺め(写真)は最高で、潮干狩りへといつも走る道は、櫛田川の流れとともに真っ直ぐ東に延びていた。
“きくがごと まこと高見の山なれば わが里みせよ雲居なりとも 宣長”
下山時、もうすぐ登山口に出るというところで、“寛政6年(1794)、本居宣長65歳のときこの道を歩いた”という小さな手作りの看板を見つけた。私は、帰宅して本居宣長の“紀見のめぐみ”について調べた。“宣長”のこと、“紀州藩と松阪”のことが少しだけ分かったような気がした。
3月中旬、小峠まで登ったところで、“本居宣長”の歌に出会った。
“本居宣長”の名前の左側は『紀見のめぐみ』と修正、上書きされていた。彼が伊勢・松阪の生まれとしか知らない私には“高見山”との関係が分からない。私にとって伊勢・松阪は大好きな潮干狩りをする場所。その時はいつも国道166号を高見峠のトンネル抜け、松阪の海目指して走っているのだ。
小峠からは伊勢街道と別れ、急に険しくなった登山道を山頂目指して頑張った。山頂からの眺め(写真)は最高で、潮干狩りへといつも走る道は、櫛田川の流れとともに真っ直ぐ東に延びていた。
“きくがごと まこと高見の山なれば わが里みせよ雲居なりとも 宣長”
下山時、もうすぐ登山口に出るというところで、“寛政6年(1794)、本居宣長65歳のときこの道を歩いた”という小さな手作りの看板を見つけた。私は、帰宅して本居宣長の“紀見のめぐみ”について調べた。“宣長”のこと、“紀州藩と松阪”のことが少しだけ分かったような気がした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます