“春の日は南円堂にかがやきて三笠の山に晴るるうす雲”
昨日は母の四十九日。
今朝から、祀っていたものを片付けた。
母の前で御詠歌をあの日から何度上げたことやろう。
猿沢池をスタートして奈良町・奈良公園を散策し、近鉄奈良駅に戻ろうとした時、興福寺五重塔が見えてきて、その向こうに小さく見えたのが西国 三十三所第九番札所の“南円堂”やった。
なぜか “南円堂”が見えたら、頭の中で「チーン!」って音がして、勝手に“9番の御詠歌”が始まったんやった。
「春の日」とは、やっぱり「春日(かすが)」のことやろか?
「三笠の山に」は、「晴るるうす雲」よりも「いでし月かも」の方がええのになぁ~
そんなことを思いながら興福寺境内を“南円堂”へと歩いた。
五重塔を見上げると、いつ見ても高い!
東金堂には拝観者の列ができていた。
東金堂と“南円堂”との間の広い空間は、現在工事中。
天平の伽藍が復興されるのやろうか?
そして“南円堂”には、納経の人の姿。
西国巡礼が懐かしかった・・・
満中陰、四十九日を終え、母はどこまで行ったんやろうかなぁ~
無事、極楽へ行けたんやろか?
お寺さんの説法に「遠きて近きは・・・」とあったけど・・・
母の夢を何度か見たという家人のことが羨ましかった・・・
@八角宝形造の“南円堂”
藤原氏の氏寺である興福寺は、もとは飛鳥にあったが、和銅3年(710年)に現在の地に移ってきたとされている。“南円堂”はその約100年後、弘仁4年(813年)に興福寺の一堂として、藤原冬嗣が父、内麻呂の供養と一族の繁栄を願い建立したといわれている。
堂を建てるに際し、白銀の観音像千体を埋めて地鎮としたと伝えられている。
興福寺は何回もの火災に遭っている。特に治承4年(1180年)の平重衡による兵火では南円堂の本尊も焼失したという。享保2年(1717年)の大火直後は復興する力もなく建物不在であったが、寛政9年(1797年)に再建されたといわれており、これが現存の南円堂であるとされているとのこと。
「写真;興福寺南円堂」
昨日は母の四十九日。
今朝から、祀っていたものを片付けた。
母の前で御詠歌をあの日から何度上げたことやろう。
猿沢池をスタートして奈良町・奈良公園を散策し、近鉄奈良駅に戻ろうとした時、興福寺五重塔が見えてきて、その向こうに小さく見えたのが西国 三十三所第九番札所の“南円堂”やった。
なぜか “南円堂”が見えたら、頭の中で「チーン!」って音がして、勝手に“9番の御詠歌”が始まったんやった。
「春の日」とは、やっぱり「春日(かすが)」のことやろか?
「三笠の山に」は、「晴るるうす雲」よりも「いでし月かも」の方がええのになぁ~
そんなことを思いながら興福寺境内を“南円堂”へと歩いた。
五重塔を見上げると、いつ見ても高い!
東金堂には拝観者の列ができていた。
東金堂と“南円堂”との間の広い空間は、現在工事中。
天平の伽藍が復興されるのやろうか?
そして“南円堂”には、納経の人の姿。
西国巡礼が懐かしかった・・・
満中陰、四十九日を終え、母はどこまで行ったんやろうかなぁ~
無事、極楽へ行けたんやろか?
お寺さんの説法に「遠きて近きは・・・」とあったけど・・・
母の夢を何度か見たという家人のことが羨ましかった・・・
@八角宝形造の“南円堂”
藤原氏の氏寺である興福寺は、もとは飛鳥にあったが、和銅3年(710年)に現在の地に移ってきたとされている。“南円堂”はその約100年後、弘仁4年(813年)に興福寺の一堂として、藤原冬嗣が父、内麻呂の供養と一族の繁栄を願い建立したといわれている。
堂を建てるに際し、白銀の観音像千体を埋めて地鎮としたと伝えられている。
興福寺は何回もの火災に遭っている。特に治承4年(1180年)の平重衡による兵火では南円堂の本尊も焼失したという。享保2年(1717年)の大火直後は復興する力もなく建物不在であったが、寛政9年(1797年)に再建されたといわれており、これが現存の南円堂であるとされているとのこと。
「写真;興福寺南円堂」
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