先日,Mさんのブログを拝読していたら,大化の改新の絵が載っていた。
その絵とは,談山神社に伝わる『多武峯縁起絵巻』。
「蘇我入鹿暗殺の図」は、日本史の教科書でもおなじみであり、大化改新のクライマックスともいえる飛鳥板蓋宮における暗殺の場面。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子、弓を手にしてい るのが鎌足公と伝えられている。
この2人の名前はよく登場するが,私にはもう1人気になる人物がいる。
その人とは,蘇我入鹿と従兄弟の「蘇我倉山田石川麻呂」。
その大化の改新は,
皇極天皇4年(645年) 6月12日中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺した。
暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げたのが、「蘇我倉山田石川麻呂」だった。
「石川麻呂」は改新の後、その功績が認められ右大臣になっている。
中大兄皇子は,「石川麻呂」の娘・遠智姫と結婚し,後の天武帝の皇后で持統天皇を生んでいる。又、中大兄皇子は「石川麻呂」の娘・姪娘とも結婚し、後の元明天皇を生んでいる。
以上のことから、中大兄皇子と「石川麻呂」は親密な関係にあったはず・・・
645年12月,都を難波に遷し、「石川麻呂」も難波に邸宅を構えた。
649年3月24日に「石川麻呂」の異母弟である蘇我日向が、「石川麻呂」に謀反の疑いがあると中大兄皇子に告げた。ことの真偽を問うための使者が派遣されたが、「石川麻呂」は天皇へ直接奏上すると断ったために、難波の邸宅は包囲されることになり、「石川麻呂」は急遽奈良の「山田寺」(蘇我氏一族の倉山田家の氏寺)へ逃げ込み,金堂にて天皇に忠誠を誓った後、妻子共々自害した。
中大兄皇子は、なおも一族を追求し、斬首14名、絞首刑9名、流刑15名という大量の処分を行ったと日本書紀に書かれているという。
本当に中大兄皇子は、妃の遠智姫と姪娘の父親を殺したんやろか?
「蘇我倉山田石川麻呂」の無念は・・・
昨日もそんなことを考えながら,飛鳥と我が家の間に位置する「山田寺跡」の横を通過した。
「写真;山田寺跡(昨年9月頃撮影)」
その絵とは,談山神社に伝わる『多武峯縁起絵巻』。
「蘇我入鹿暗殺の図」は、日本史の教科書でもおなじみであり、大化改新のクライマックスともいえる飛鳥板蓋宮における暗殺の場面。
太刀を振り上げているのが中大兄皇子、弓を手にしてい るのが鎌足公と伝えられている。
この2人の名前はよく登場するが,私にはもう1人気になる人物がいる。
その人とは,蘇我入鹿と従兄弟の「蘇我倉山田石川麻呂」。
その大化の改新は,
皇極天皇4年(645年) 6月12日中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を殺した。
暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げたのが、「蘇我倉山田石川麻呂」だった。
「石川麻呂」は改新の後、その功績が認められ右大臣になっている。
中大兄皇子は,「石川麻呂」の娘・遠智姫と結婚し,後の天武帝の皇后で持統天皇を生んでいる。又、中大兄皇子は「石川麻呂」の娘・姪娘とも結婚し、後の元明天皇を生んでいる。
以上のことから、中大兄皇子と「石川麻呂」は親密な関係にあったはず・・・
645年12月,都を難波に遷し、「石川麻呂」も難波に邸宅を構えた。
649年3月24日に「石川麻呂」の異母弟である蘇我日向が、「石川麻呂」に謀反の疑いがあると中大兄皇子に告げた。ことの真偽を問うための使者が派遣されたが、「石川麻呂」は天皇へ直接奏上すると断ったために、難波の邸宅は包囲されることになり、「石川麻呂」は急遽奈良の「山田寺」(蘇我氏一族の倉山田家の氏寺)へ逃げ込み,金堂にて天皇に忠誠を誓った後、妻子共々自害した。
中大兄皇子は、なおも一族を追求し、斬首14名、絞首刑9名、流刑15名という大量の処分を行ったと日本書紀に書かれているという。
本当に中大兄皇子は、妃の遠智姫と姪娘の父親を殺したんやろか?
「蘇我倉山田石川麻呂」の無念は・・・
昨日もそんなことを考えながら,飛鳥と我が家の間に位置する「山田寺跡」の横を通過した。
「写真;山田寺跡(昨年9月頃撮影)」
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