不整脈のトラウマに打ち勝って明るく前向きに生きる男の顛末記

明るく前向きに生きることで
不整脈とQOLをコントロールした男の生きざまを描く

ニンゲンはこうして醸成され熟成する

2023-09-14 23:25:31 | 人間学


遺伝的性質と環境因子。

父の危篤、父の死。
世間一般で言うところの一大事に遭遇しても極めて普通に過ごしている自分がいる。
父の訃報の当日、会社で何事もなかったように働いていると何をしてるんだ的に皆に言われる。

 えっ? 皆さん そうじゃないの?

とっくの間に自覚はしているが俺って変!。

例えば、今駆け付けたところで何もできない。
病院は安易に面会を許す場所ではなくなった。
例え親の死に目だろうが何だろうが。
それにアニキ夫婦はバタバタだ。
夕方に倒れ、日付が変わったと思ったらすぐに亡くなった。
そこに事情を察しタイミングを読むことができない弟が来たら?。
疲れが増すだけだろう。
葬祭場を決めたり、葬儀の段取りをする段階で、
外から余計な口出しをする親族がいたら?
俺なら迷惑しか感じない。
と現実を見て、アニキ夫婦の現状を考え、合理的な行動とは何かを考えれば、
事が進むまで(アニキ夫婦の段取りが終わるまで)普通の日常を過ごすしかないのである。

まあ父との関係性、父のこれまでの生き様、父の亡くなり方。
こういうもので抱く感情や対応の仕方も変わってくるが、今回はこれがベターである。
しかし、きわめて合理的なこの対応も、
世間様的には冷徹非情の烙印を押される自分がいる。

どうも世間様は
親が亡くなったら取り乱し、泣き叫び、真夜中だろうが何だろうが
家に駆け付けねばならないらしい。
これが変だと思えないのが世間様なのか・・・
父との思い出を振り返る中で見えてきた

自分はなんでこうなった?

おやじが40歳近い年でできたのがワシ。
上のアニキとは12歳、下のアニキとも9歳離れている。
皆様がイメージするような世間一般の親に抱くイメージやアニキのイメージとは大きく異なる。
親もアニキもとにかく大人なので優しいのだ。
こういう立場になるとどうなるか?
こうおやじであるとかアニキであるとかの実感がわかなくなる。

 おやじは父親とじいちゃんの中間。
 上のアニキは父親とアニキの中間。

これがちょっと特殊な家族感情の始まりである。

で、思春期に突入した子供の親がいいおっさん、おばさんだと何が起きるか?
授業参観などに来てほしくないという感情が芽生える。
別にそれで同級生にいじられたことはないが劣等感がね。
周りの同級生の親はピチピチだがウチの親は親とジジババの間。
これは子供心には結構堪える。
で、運動会なども弁当持ち。
今は親が来れない子供同士を集めて、
先生も一緒になってって配慮があるらしいが当時はそんなものはない。
いっつも一家団欒を横目にしながら育まれたのは孤独や劣等感に耐える能力である。

真夜中の山中に一人で居て寂しくないのか?とよく言われるが、
この時培われた経験が活かされている。
それに車などの避難場所が近ければ寂しくも怖くもない。
悪霊の類は容易に車内に侵入してくることが予想されるが、
まあそうなったらそうなったで霊と齧りあって雌雄を決するしか手はない。

ただ、虫だろうがクマだろうが悪霊だろうが人間よりははるかにマシである。
この世の中で見ず知らずの人間ができてない他人ほど質の悪いものはない。
この地球上で要らないものは人間だけである。


中学校に入ると部活をせねばならぬ。
帰宅部志望だったが、どうもそれは許されないらしい。
野球が好きで得意だったが坊主頭は死んでも受け入れられない。
で柔道部に入ったが、これが人生の大きなターニングポイントであった。
当時はブルースリーやジャッキーチェンに憧れてたので、
ホントは空手部に入りたかったが空手部がない。
まあ、同じ格闘系なのでいいだろうと柔道部に入ったが
成長期に筋肉や骨を太くする方向に身体を鍛えると背が伸びるのが止まる。
私の兄弟や息子たちは175cmはあるが、
私は筋肉ムキムキと引き換えに背が小さめとなった。

だが、柔道も悪いことばかりではない。
タイマンのケンカでは負けたことがない。
というより勝負をせずに済んだ。
パンチを捕まえて、投げて、袈裟固めで抑え込めばそれで終わりである。
袈裟固め以外の抑え技は噛みつかれる危険性が出る。
袈裟固めの利点は他にもある。
相手と会話ができる点だ。
抑えるのにそれほど労力も必要としないので、
相手が諦めるまで抑え込んでいればよい。
しかも、固めながら相手を痛めつけることができる。
自分の一番下のあばら骨を相手のみぞおちに食い込ませるのだ。
これをやられると呼吸が制限される。
たいていの奴は数分抑え込めばギブアップである。
だが、そこに行く前段階では相手に負けない力が必要だ。
色んな技を覚えるのが面倒なので、とにかく背負い投げ一本で行くことにしたが、
多彩な技がないのに負けないためには相手を圧倒する力が必要なのだ。
努力は嫌いだったが筋トレは死ぬほどやった。
確か中三の体力測定で握力は75、背筋力は200くらいはあった気がする。
組んでさえしまえば血も流さずにケンカに勝てるのが柔道の利点かも知れない。
ただ、手段を選ばない相手には頭から床にたたきつけて殺すくらいの覚悟が必要だ。
背負い投げは相手を抱えて投げる瞬間に自分の膝を折れば、
相手の頭を地面に叩きつけることができる。
殴ったり蹴ったりでは人はなかなか屈しないが、
全体重が落下する運動エネルギーを脳天に食らわせれば簡単に倒れる。
大事なのは、それを実行することではない。
イザと言う時にそうすることを決めておき、
イザという時にそれを躊躇なく実行できる準備と覚悟をしておくことだ。
最後の手段をもっているからこそ、その手前では余裕を持っていられるのだ。

腕っぷしが強いので不良グループからよく誘われたが全部断った。
それを理由によくヤキを入れられそうになったが、
奴らもプライドだけはあるようでリンチはしてこなかった。
が、追い込まれれば手段を選ばなくなるのは弱いヤツにありがち。
なのでいつも予防線は張った。
今はヤラれてやるが、俺が動けなくなるまで一人や二人は半殺しにするぞ。
お前らもいつも群れて過ごすわけではないだろう?
一人になる時は夜道の後ろ頭に気をつけろ。
俺を殺さない限り、一人一人半殺しにしてやると。

群れるのは弱いヤツが自分を守るために群れの中に入りたがるので、
心底嫌いだったし反吐が出る。
奇人変人のオタクでも、ソロでいるヤツには親近感が沸くし尊敬もできるが、
群れるヤツは今でもクソだと思っている。

努力せずともある程度上位に入りたい。
人生全てにおいて、この根本的価値感を原動力として動いているが、
柔道部の顧問に言われたことは一生忘れない。
「お前の力なら県大会でも勝ち上がれるのに何で全力を出さないんだと」

柔道には坊主頭はないが減量はある。
当時階級は忘れたが59kgまで体重を絞らねばならなかった。
大会前日は町のお祭り。
例年であれば屋台でうまいもんを食いまくっていたのであるが、
その年は減量中でなにも食えない。

 みじめだ

さて、地区大会の当日。
3回戦くらいだったと思うが、対戦相手の柔道着の脇の下がまっ黄っ黄。
なんでだ?と思ったのも束の間、組み合った瞬間理由が判明した。
ぷ~~ん! くっさ!。
そう、彼はワキガマンだったのだ。
テメェ~ 汚ねぇ~ぞ(脇も性根も)。
この手の卑怯者は早々に畳に叩きつけてやろうと思ったが少々手強い。
本気でやろうにも鼻を衝くワキガー臭は戦意を削ぐ。
顧問は畳をバンバン叩いて本気になれと言うが、
本能が拒絶するもんはしゃ~ないよねぇ。
で時間切れの合図と当時に背負いで叩きつけたが時遅し。
技への入りが時間切れの合図の後だったので見事なノーカウント(無効)である。
負けた瞬間は悔しかったかって?
そんな気持ちは微塵も感じない。
だって、本気でやれば勝てたから。
他人の尺度(柔道のルール、大会の規定)での勝ち負けは関係ないのだ。
自分でも思うが本当にクソで嫌な奴である。

この時に限らず、実は本気で物事に当たったことはない。
では、その辺で向かうところ敵なしなのか?というと、まあ中の中ぐらいじゃないかな。
本気で物事に当たらなければならない場にはそもそも立ち入らないからだ。
その手の嗅覚が非常に優れているのは以下の通りだからである。
 努力をするのは性に合わない。
 基本(セオリー)は無視。
 他人の真似はしたくないので、もちろん習い事もするはずがない。
 他人に価値を求めてもらう必要性も感じないので競い合う何かを必要としない。
究極の我流・自己流・身勝手流であり、自己満である。
肉まん・あんまん・ピザまんはどれもうまいが、自己満は食うところがない。
世間的には何も価値がない「まん」が自己満である。

今生きていて何が苦痛か?
それは他者に評価されないとおまんまの食い上げになる会社生活。
一日のその手の持久力・忍耐力・耐久力は会社で使い果たすので、
仕事のある日の帰社後は人として終わっている状態だ。

こんな風に何をしてもどこか冷めた目で上から自分をのぞき込んでいる感じ。
まあ、ゲームのキャラもプレイヤーも兼任している感じ。
人生そのものがオープンワールドゲームみたいなもんである。
(なるほど、スカイリムの世界が心地いいのは、あればゲームではなく人生そのものだからか)
これは環境因子で心当たりはないので遺伝的性質なのかもしれない。


高校は男の花園、工業高校へ進学したが学校までは40kmはあった。
電車とバスを乗り継ぎ駅からは徒歩。
朝6:10に家を出て、部活を終えて家に付くのが23:00頃。
こんな生活をしていればくたびれるし太る。
なんせ23:00に帰ってどんぶり飯3杯も食うのだから。
ちなみに高校入学時の体重は62キロくらいだったが出る時は90キロを超えていた。
毎年10キロずつ増えていったのを数えていた記憶がある。
ぼっちゃりの資質はこの頃磨かれたらしい。

ウチの高校は基本的に部活は辞めれない決まりがあったが、
さすがに勉学に勤しむ時間がなくて成績がガタ落ちという理由が認められ
退部が許された(成績悪化の原因はソレではないが)

この高校生活で培われたのは、自分の力ではどうにもできないことに耐える能力だ。
1年生の時は学校近くの駅の駐輪場までチャリを持っていった。
自転車通で余裕?
とんでもない。
どこの誰だかわからない先輩(3年)に通学途上にあるホカ弁の弁当を頼まれる。
(新入生にとっての3年生はオッサンだよ、しかもやたらとガラの悪いね)
少ない日でも4人くらい、多い日は7人だ。
お分かりになると思うが、ホカ弁でこの数ができるのを待つのも、
これを持って3年の各教室に配達するのも難行苦行だ。
艱難辛苦はこれだけではない。
電車痛の最中にナンパという先輩への奉仕活動がある。
この奉仕活動、成功しても褒められないが失敗するとどつかれる。
年頃の女子がいない日は、途中の車両の運転室の窓から、
通勤時間帯の満員の新潟駅で自己紹介や声出しをさせられる。
これもやってみればわかるが生きるために微塵も必要としないことである。
私の辞書では先輩と書いて理不尽と読む。

だが、この奴隷状態でも悪いことだらけではない。
弁当配達人の特権で先輩からのいじめには遭わなかった。
事情を知らない理不尽(先輩)にヤラセそうになっても注文主が守ってくれる。
だが、偉く率の悪い見返りである。
まあ保険みたいなもんか。
多大な労力を費やすが(保険料を毎月キッチリ収めているが)、
恩恵を授かる機会(保険金を受け取る)は極めて少ない。
まあ掛け捨ての保険みたいなもんが、この弁当配達という労働だった。
この時悟ったのは社会生活を営むということは

 やりたくないこともやらされる
 コネは大事だなぁ


3年の体育の授業中、ジャンプして着した先に他人の足があり、
足首をしこたま捻挫した上に、足の甲の骨が折れる事件があった。
この時、悶絶する私を誰一人助けてはくれない。
なるほど、日頃他人に冷たい奴は人からも助けてもらえないのか。
世は等価交換の法則でできている。

誰の助けがなくても何とかせねばならぬ。
だが痛くてとても歩けない。
保健室まで這って行き、保健の先生に診てもらったが、
センセイはブス色に腫れ上がった足首を見て、はよ~医者に行けと言う。
とりあえず松葉杖を貸してもらい駅まではタクシーで行けたが、その先はね。
当時、我が家で車を持っていたのは上のアニキだけだった(もちろん免許も)
今どきの餓鬼メラなら、すぐに親なりに泣きつくだろうが我が家は鍵っ子家庭だった。
家の電話番号はわかっても、どうせ誰も出ない。
アニキの職場の電話番号は知らない。
もっともわかっていても助けは呼ばなかったであろう。
例えガキでも自分の不始末のけじめは自分でつける時代だ。
松葉杖をついてテクテク歩いて帰ったが途中で血だらけになった。
脇の下にまめができ、それがつぶれたのだ。
駅でも電車内でも皆が避けていく。
そりゃ~そうだろう。
血だらけで松葉づえで目を血走らせたビッコがドスドス歩いて来れば俺でも近寄らない。

何でも自分でできることは自分でやる。
いわゆる自己完結型人間が確立されたのは、
この「脇の下血だら真っ赤事件」によってである。


就職して社会人になってからの経験は人間の醸成にあまり影響を与えるものはない。
この時期の経験は人間の熟成には寄与するが、
すでに醸成された人格の上塗りをするに過ぎない。
三つ子の魂百までというが、
やはり脳や心の成長期に受けたダメージ(または成功体験)が
その後の自分のありように大きく影響を与えるようだ。
ある程度人間性が確立された後の補正・修正というのはあまり効かない。
まあ早い話が手遅れなんだなこれが。

ちなみに遺伝的性質について、ここでは言及しない。
親の癖、価値観などを吟味すれば、根本は似ていることが判明するであろう。
趣味とか、趣向とか、美的センスとか、好き嫌いとか(食い物ではなく)
もっとも、そういうのは占いに似ていて、自分がそう思い込むだけかも知れないが。

まあ、くだらない話をつらつらを書き綴ったが、
言いたいことは私の人生がどうだこうだではなく、
思春期くらいまでに抱いた感情や培った経験などで
己が出来上がってますよということだ。
真っ白いキャンパスに描かれた傷や模様などは後から修正や補修は効かないのと同様、
自分の根幹がそう簡単に変わらないのは、まあそういうことなんだよねぇ。

ただ、社会経験で上塗りはされる。
キャンパスの一番下の層は傷や穴だらけでも経験で上塗りされた表面は、
一見するとキレイに見える。
これが本性は腐っていても社会的には、まあ普通かなレベルを貫ける理由だ。

どうも子供返り、先祖返りして未熟な我儘野郎に戻っていく人間を見ていると、
老いることで社会生活で身に着けた上塗りを維持できなくなるようだ。
それによって傷だらけで穴だらけのキャンパスが現れ、
家族や子供にとっては迷惑でしかない老人が出来上がる。

ウチのおやじは今宵、大往生だったと家族の笑顔で通夜を迎えるが、
そんなおやじの姿を見ていても、なお長生きはするもんじゃないと痛感する。
惜しまれるうちにこの世を去る。
己の上塗りが剥げる前にね。
だって~、上塗りが剥げたら、こんなクソ野郎の面倒を見る家族がいい迷惑でしかない。
例えやり残しがあっても、自制が効くうちに星屑に還る。
これが最期の大仕事になりそうな人生である。



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