不整脈のトラウマに打ち勝って明るく前向きに生きる男の顛末記

明るく前向きに生きることで
不整脈とQOLをコントロールした男の生きざまを描く

死とはなんなのか?

2023-09-17 09:28:56 | 人間学



父の通夜の夜は斎場に泊まれるように手配してもらった。
その斎場のお泊り部屋は父の亡骸を安置する場所と間続きで父と一晩を共にした。
今は一晩くらいは持つ渦巻き型の線香があって寝ずの番はせずとも良いが、
オシッコが出る薬を飲んでて途中何度も目が覚めるので、
水を変えたり、尊顔を拝んだりして、一晩父とゆっくり過ごすことができた。


この斎場に一冊の哲学本が飾ってあった(もちろん読んでも良い)。
死とはなんなのか?という題名の本だった気がする。
死がどういうものか?
この手の答えが出ないものを突き詰めて答えを見出そうというのが哲学である。
例えば、死が何なのか?について、一見成り立ちそうな理屈を述べた哲学者がいたとして、
他の哲学者が、その理屈が成り立たない理屈を考え、その理屈が真理ではないと証明し、
と言うようなことをやりつつ自分の理屈を真理に昇華させていこうということのようだ。
(本当のことは知らん)


本のタイトルに釣られたが、
哲学書なので当然のことながら明確な一つの答えは書かれていない。
哲学書(またはみたいなもん)に触れる際は、その点には気をつけるべし。
その本もご多分に漏れず、高名な哲学者の理屈とその反証、その他の理屈、
そこから導き出された著者の理屈などがツラツラ書かれているので、
読み手も一人の哲学者になって、自分なりの理屈(=解釈)を見出すことを試みる。
そんな感じで付き合えばよい。


【魂は存在するか?】
その本には(著者の見解)、
人格(の存在)こそが生きている証であり、
人格が永続的に機能を果たせなくなれば、それは即ち死であると考えていると述べている。
(これは答えとして述べているわけではなく、あくまで著者の考えとして述べられている)
また、人格と言うのは当然、正常に機能している肉体がなければ存在し得ない。
従って死とは、
 人格を維持しうる肉体がなくなり、
 人格が維持できなくなる、
 または、人格が機能しなくなってそれが回復できなくなる
状態に陥れば、それが即ち死と言えるのではないか?と綴られている。
機能する肉体がない状態では人格が存在できないので魂もない。
従って魂も存在しないという結論になる。

これは至極真っ当な話だ。(その代わりロマンのかけらもないが)

魂、霊魂、死後の世界。
コレの存在を主張する個人なり団体で収益に全く結びつかない個人や団体はあるまい。
SNSに散見される超常現象なども、
 利益誘導(後ろにいる組織などの)
 承認欲求
 収益
に必ず結びついている。

もし死後も魂があるのであれば、
そしてそれが現世にも現れうる存在であれば
そう人間の都合よく
 縁者の前だけに現れる
 いわくつきの場所だけに現れる
など、まあ話題になるような出方だけするかね?

これまで存在したすべての人類の数だけ魂もあって、
(それは数百億とかのとんでもない数になるだろう)
それらが場合によっては人前に姿も現わせるとしたら?
今の人間界同様、変わり者の魂や無法者の魂(あの世のルールを無視するような)
目立ちたがり屋の魂が、イレギュラーな場にイレギュラーな形で現れ、
世は大混乱になるだろう。
そしてそれが日常化し、もはや幽霊が出ようが何しようが話題にもならなくなるだろう。

おわかりかな?
ミステリーやオカルト話で話題になるような、
そんな出方でしかお目にかかれないということ自体が、
魂も幽霊も存在し得ない明確な証拠であり、
人の欲、あるいは築き上げた社会システムを維持するために作られたヨタ話なのである。

よく考えて欲しい。
自分にだけ亡き父が見えて、話しかけてきて声も聞こえる。
そんな都合のいいことは物理的にはあり得ない。
光子として認識できるのであれば他人にも見えるし、
音波として認識できるのであれば他人にも聞こえる。
自分にだけ超常現象。
これが成立するのは、その人の脳内で都合のいい物語が造り出され、
その人の脳内で脳内再生された場合のみである。



人間には
 思い込み
 幻覚
 幻聴
 夢想・妄想
があり、そこに
 承認欲求
 利益
が加わって、
もはや真実などと言うものは人間界から当の昔に消え去っているのだ。


【死んだらすべてお終いか?】
当人にとってはイエスである。
もしそうでないのだとしたら?
誰も死を恐れたり悲しんだりすまい。
変な話だが死んだらすべてお終いなのは誰もが知っている。
だからこそ、みんな死にたくないのではないのかね?

だが、生き残った家族や縁者にとっては、
父の死で父のすべてがお終いになるわけではない。
すくなくとも孫(ウチの父であれば4人の曾孫)くらいまでは心に思い出とし残る。
亡くなった父の魂はなくとも、父は仏になった。
7日ごとに法要(仏になるための修業の節目)があり、7日ごとに閻魔様の裁きを受ける。
49日目に閻魔様の裁きが確定し、仏になるか?地獄に落ちるか?が決まる。
7回目の法要をもって墓に骨を収めるのも、この日をもって真の仏になれるからだ。
(これは私はこう思うということであり、その他の意図は全くないことはお断りしておく)

宗教、宗派によって細部は異なるが(例えば神道であれば死者は神となる)、
共通している点がある。
それは生き残った人にとっての故人への畏敬の念や信心・信仰心の問題である。
私個人としては無宗教である(ただ、実家は仏教であるし、今の家は神道である)
だが、私個人としてはお釈迦様の教えを受け入れている。

 仏はあなたがいると思ったところにいる

父は亡くなり、火葬で肉体が消え去った時点で死が確定した。
魂も存在しない。
だが、父は仏になり、49日後には極楽浄土へ旅立つ。
今父は仏になるための修業中だが、
私がいると思ったところには仏として存在する。

それでいいではないか。

魂があろうがなかろうが、死後の世界があろうがなかろうが、
私が死を迎えない限り、父は私の中に仏として存在する。
ある時は道端の花に宿り、ある時は空の星の一つになる。
私がこう思うのも、仏壇に手を合わせ、墓参りをし、
父(あるいはご先祖様)を敬うのも、私の心の持ちようの問題である。

死後の世界があり、魂があると思うのも良し
(その場合、死んでもすべてお終いとはならないハズだ)
死後の世界も魂も存在しないが、父は仏として身近にいると思うのも良し。

死とはいったいなんなのか?
まんたろうという人間のまんたろうとしての人格が存在しなくなること。

それが答えである。



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