前回までは父の死をきっかけに死について己が人生を振り返りながら考えてみた。
こんなことを言うと不快に思う人がいるかもしれないが死については割と単純だ。
死んだらどうなるのか?
魂はあるのかないのか?
死後の世界で己と言う人格を維持したまま(これを魂と呼ぶのだろうが)、
己が存在する世界が異なるだけで生前と同じように自分自身は存在するのか?
それともすべてが消え去り無に帰すのか?
議論はまずその二択から始まる。
だが、生きるとはなんなのか?と言う問いになると、
これはもう大変な事態になる。
生きるってどういうこと?。
この問いに誰もが納得するような明確な答えが出せる人はいるだろうか?。
いないんだな、それが。
かつて人類界には偉人というか大賢人というか、
その答えを見出したお偉いさんが幾人かはいた。
まあいわゆる宗教のお話に出てくるような人ね。
(その人物が実在していたかどうかはここでは問わない)
筆者は絶対神信仰は好きではないので、ここではお釈迦様の話をする。
お釈迦様は大変偉大な御方で生と死についての悟りを得た方なのだが、
それでもお釈迦様のおっしゃることがもっともだと信じてついていく人、
いわゆる仏教徒は4億人に届くかどうかで多くはない。
ちなみにキリスト教は23億人弱、イスラム教は14億人強、ヒンズー教は9億人、
無宗教も10億人近くいて、伝説になるような偉人・大賢人であっても
70億人誰もが納得できる真理を示せている人は一人もいない。
(ちなみに筆者は無宗教である)
お釈迦様の教えは精神的に軟弱になった現代人の方々には実は大変厳しいものだ。
安全を保障しろ~
危険だって知らせろ~
非難しろって指示しろ~
自分の生死ですら誰かに教えてもらったり、指示してもらわねばダメな連中だらけになった人類。
(自らの命の危機を自ら判断できないってどういうことよ)
こういう連中は絶対神を信仰した方が良い。
すべては神の思し召し。
そう、何でも神のせいにできるよ。
いいことも悪いこともね。
自分は一切責任を取らなくていい。
自分は悪くないんだよ!。
何があってもね。
だって神様がそうなされたんですもの。
しゃ~ないよね。
例え選択を誤って自分が死んだとしても、死すら神の思し召しで済ませられる。
実に便利で身勝手な教えだ。
これを他因自果という。
一方、お釈迦様の教えをメチャクチャ簡単に要約すると
すべては自分次第である
と解釈することができる。
例えば、嫌な奴に嫌なことを言われたとしよう。
自分がそいつを嫌な奴だと思うのも自分。
そいつが自分の嫌がることを言ってやがると思うのも自分。
これを自因自果というが
なんでもハラスメント時代にどっぷり浸かった現代人には、
到底受け入れられない教えだ。
筆者は仏教はそのうちなくなるのではないか?と危惧している。
自分以外の何かのせいにして生きるのは誰でもできるしその方が楽だ。
他人の行いのせいで被害を受けても、被害だと思っているのは己である。
なぁ~んてことを受け入れられる人はいまい。
だからこそ悟りが開けたのはお釈迦様と他に一部のお弟子さんだけなのだ。
そんな究極のお人好しになるようにしか思えない教えであるが、
生きることや死ぬことの苦しみから逃れられるのも、
世界から争いをなくすことができるのも、
唯一このお釈迦様の教えを実践できた者だけである。
だが、人を殺してお金儲けをする人間が牛耳る今の世では、
この教えを実践するものが増えたらたまったもんではない。
争いを絶やさないためには、
常に他人(他国・他宗教・他民族)のせいにさせ続けて、
まあ、お互いが破滅しない程度に憎しみ合い争い続けてもらわねば、
おまんまの食い上げになって困る。
ゆえに仏教が人類の信仰の主流になることはないし、
人が愚かになればなるほど、お釈迦様の教えは抹殺される可能性が高くなる。
理由は簡単だ。
絶対神信仰と独裁政治は実に相性がいい。
唯一無二の神。
の神の部分を独裁制の指導者の名前に書き換えればよい。
個々の国民一人一人にすべては己の中にある! 目覚めよ!
なぁ~んて教えが広まった日には独裁者にとっては悪夢だ。
国民はバカのままでよい。
神(独裁者)の思し召しなのだから何も考えず黙って従え。
てな具合にね。
仏教徒がどんどん減り続けているのは、
人類が陥っているある理由にあり、その流れはもう止められない。
もう一回バカ騒ぎをして大勢が死んで、その悲惨さにまた同じように反省するまでは。
お釈迦様については、ここではこれ以上触れないので、
興味のある方はお釈迦様に関する本を読み漁ってみるといい。
ただし、答えが見つかると思っている人は考えを改めねばならない。
答えは誰かに示されるものではなく自ら見つけるものだ。
お釈迦様の教えを簡単に言うと、まあ、そういうことである。
さて、最初の話に戻ろう。
生きるとはなんなのか?
生物学的な生死判定で言えば、自発呼吸の有無であるとか、脈があるとか、
瞳孔が開いていないとかであるが、そんなことは聞いていないよね。
ここで自問自答してほしいのだが、
生きているということを自分の自由意思で自由に動くことだと仮定した場合、
あなたが自分の自由意思で思い通りに動いている時間ってありますか?。
あったとしたら、その比率はどれくらい?。
例えば朝起きる時間。
365日すべての日で起床時間を自由意思に任せて起きていい日ってありますか?。
仕事のある日なら仕事に間に合う時間に起きてるだろう。
同じく朝昼晩のご飯を食べる時間も仕事の影響を大いに受けてるハズだ。
決して自由意思で好きな時間に飯が食えているわけではないだろう。
では仕事の影響を排除しよう。
花が好きなあなたは退職して1日中花のお世話をすることにした。
だが実際に365日1日中お世話ができるかというと、それは不可能だ。
まず生物学的な限界で生きている時間の1/3は睡眠という休息に取られる。
宇宙の摂理に従って起きる夜、この真っ暗い夜にもお世話をすることはできない。
天候にも左右され雨の日にもできないだろう(花のためには雨は必要不可欠であるが)。
生きるために欠かせないメシの準備・食う・後片付けの時間にもできないし、
(自給自足時代は、この食料を確保する時間が=生きるってことだった)
友人が遊びに来た時間にも花と遊ぶことはできない。
この例えが適切かどうかは別にして、
こんな感じで自分の人生の行動全てについて当てはめて考えた時、
何かしらのしがらみに縛られずに自分の自由意思で生きている時間って
ある?
まあ、人によるがほぼないハズだ。
って、こういう思考実験をしていった時に
お釈迦様の教え、自因自果 が活きてくる。
つまり、誰かしらの何かしらのしがらみの影響を受けて
決して自分の自由意思だけでその行動を行っているわけではないが、
自分が許容(または納得)できる理由があれば、
それは自分の自由意思で行っているという風に自分が思えるということだ。
ここで重要になるのはその境い目、いわゆる閾値となる。
どこの誰のせいでそうなったのか?
その誰が許せる人なら許せるが、許せない人なら許せない。
厄介なのは最初のしがらみでは許せないことも次のしがらみで許すしか選択肢がなく、
結局許せないことなのに許してやるしかないというケースが多々あることだ。
(さらに複雑なケースも、それこそごまんとあるかもしれない)
キリがなくなるので、この辺にするが
生きるとは何なのか?。
常に何らかのしがらみに影響を受けながら常に何かを自分で選択し行動し続けること。
誰もがこの答えに辿り着けるのにもかかわらず
生きるってなんなの?。
と問わざるを得ないのは、まあ自分の思い通りに人生生きられないからなのではないかな?
次回は
よりよく生きるためには?
を考えてみたい。
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