日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

宇治田原 高原風景

2015-04-10 07:57:28 | 日記
イエスの十字架の傍には、イエスの母と母の姉妹クロバの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。(25節)  イエスは酸い葡萄酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして頭をたれて、霊をお渡しになった。(30節) 兵士たちが来るとイエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし兵士の中の一人がイエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。(33,34節)  (ヨハネの福音書19章)



7日は雨の日でしたが、翌日は用事があり宇治田原へ行く事にしました。夫は躊躇してましたが共に。桜風景は今まで殆ど晴れの早朝しか行かなかったのです。高原に着けば何と山は雨霧、桜も晴れの日より鮮やかなピンクで感動しました。そういえば風景写真の旨い方から雨こそ撮るとよく聞いたものです。忘れてましたね。雨は傘がいるし濡れるし。





山は雨霧、手前は滴の木々です。木は毎年大きく伸びます。従って前の山が見にくくなって残念な場所が多くなりました。







若葉が出て来ましたね。元気が貰え、若葉色が大好きです。



まだサンシュが咲いていました。









帯状になった山の桜の群れ、吉野へ来た様です。小規模ですが。





少し下がった所に竹があり、そこに霧がある事を期待しましたが、無かったです。残念。





下の田原川から瀑布の様に霧が舞い上がります。凄いです。

上の言葉

(イエスは母マリアにも、この世的な母とは言われなかった。聖霊が母マリアを通し誕生させましたが、特別な存在ではないです。母マリアも、その事は充分解ってました。カトリックがマリアを特別視してられるのは、中世に欧州で、ビーナス信仰が盛んでした。それに対抗しようと母マリアを用いたのです。それが今日に及んでいます。また日本の社寺でお守り等にお札が出されます。それと同じく、免罪符を出して、それにより罪が赦される、といった風潮になり、マルチンルターが原点に帰ろう!と宗教改革が成されたのです。プロテスタントが生まれました。これは聖書の原点に帰ったまでで、元はカトリックもプロテスタントも同じなんです。

聖書は旧約聖書とイエスが生まれてからの新約聖書があります。またイエスがお生まれの日をAC1年として、BCと分かれています。イエスの十字架上での言葉が新約聖書に福音書が4書ありますが、そこに多く語られています。
”父よ彼らを赦したまえ、彼らは何をしているのか解らないのです” また十字架はイエスを真ん中にして両脇に囚人が掛かっていました。一人は、自分が神なら十字架から降ろせ、と言い、もう一人の囚人は、イエス様、御国の位に着かれたら、私を思い出して下さい、と言いました。イエスは「あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。」と言われました。

十字架は極刑です。体重がかかり、更に苦しみが襲います。そんな中、彼らを赦したまえ、彼らは何をしてるのか解らないのです、と人間なら言えないです。本当に御自分を襲う惨い罪をです。)