このひとはマンガばっかり読んでいるんだなって思われるのもなんなので、たまには現代文学の古典ということで…。
この長大な小説を、ドイツ旅行中の機内や車中でひたすら読んでいました。今まで読んだ小説で、一、二を争うくらい読みにくかったけど、確かに読み応えはありましたね。感想です。
いとこの静養しているスイス山中のサナトリウムに見舞いに行った主人公の青年。しかし、青年も病に犯され、ずるずるとサナトリウムでの療養期間が延びていく~。
元気一杯のドイツ旅行期間中、この病気療養小説を読んでいて、「なんだか、病人みたいな気分になってきた!」な~んて笑っていたら、帰国後すぐ、わたしも足首を骨折して、怪我の療養生活に…。人生、本当にわからないものです。
(特に、病状がなかなかよくならない主人公の焦燥感は、わたしも、帰国後にいやというほど味合わされましたが…。)
ところで、この小説のテーマのひとつは、簡単に言えば、「時間」ということなんでしょうけれど、サナトリウムでの生活が長引くにつれ、次第に時間の感覚が麻痺していく様子が、この小説では克明に描かれます。(たとえば、葉巻に関するくだりとか。)
そして、ルーティーンから逃れるべく味わおうとする様々な療養患者との交流。
わたしは、この小説の白眉はなんといっても、上巻最後の主人公とロシア人の人妻とのフランス語による愛の会話だと思うのですが、ドイツ人とロシア人がそれぞれの母国語以外の言語で愛を語るというロマンチックさは、筆舌に尽くしがたい魅力があります。
(オムニバス映画『愛と怒り』のなかの一編、ゴダールの「愛」ってこれに影響受けてますかね?)
また、この大変読みにくい小説を一生懸命読んだ末に出会うこのくだりは砂漠の中のオアシスのような読後感さえあり、ミュンヘン行きの列車の車中でこのくだりを読んでいたわたしは、ミュンヘンに辿り着くまでにこのくだりを読み切りたい一心で、列車の到着する「時間」が引き延ばさせることを心から望み、ドキドキしながら、ページをめくりました。
読んでいる一瞬すらとぎれることを望まない、甘美な場面…。
こんな読書体験はそうそうあるものではないでしょう。
この小説の最後、結局7年もの間、サナトリウムに居ついてしまった主人公は、第一次世界大戦の勃発とともに、サナトリウムのある山を降ります。
そして、このあと主人公がどうなったのかは語られませんが、動乱の中に投げ込まれたであろう彼の運命について、この長~い小説を読みきった人間なら、思いをはせずに入られないでしょう。
さて、私事ながら恐縮ですが、なんでこの小説について今更感想を書こうと思ったのかというと、じつは、わたしも「山を降りる」。今日から仕事復帰をするからです。
怪我の療養生活は、旅行と同じくらい、わたしの人生経験を豊かにしてくれたと思いますが、怪我前、怪我後で多少人を見る目が変わりました。まあ、家にいる間は、オペラとマンガで癒されてたって感じではありますが・・・。
別の人間になって「山を降りる」というのは、病気や怪我から読書にいたるまで、すべての体験の後に控える人生のメタファーみたいなのもかもしれませんね。
というわけで、旅と怪我の思い出に。
☆ ☆ ☆
PS①:ロシアの上流階級ではフランス語が公用語なので、フランス語を習っているロシア人は多かったそうですね。あのドストエフスキーが、バルザックの小説の翻訳をしていることからも、ロシアの語学事情がわかります。
PS②:確か、映画監督ルキノ・ヴィスコンティがこの作品の映画化を目指していたんですよね。誰がロシア婦人ショーシャにキャスティングされるはずだったんだろう?見たかったなあ~。
この長大な小説を、ドイツ旅行中の機内や車中でひたすら読んでいました。今まで読んだ小説で、一、二を争うくらい読みにくかったけど、確かに読み応えはありましたね。感想です。
いとこの静養しているスイス山中のサナトリウムに見舞いに行った主人公の青年。しかし、青年も病に犯され、ずるずるとサナトリウムでの療養期間が延びていく~。
元気一杯のドイツ旅行期間中、この病気療養小説を読んでいて、「なんだか、病人みたいな気分になってきた!」な~んて笑っていたら、帰国後すぐ、わたしも足首を骨折して、怪我の療養生活に…。人生、本当にわからないものです。
(特に、病状がなかなかよくならない主人公の焦燥感は、わたしも、帰国後にいやというほど味合わされましたが…。)
ところで、この小説のテーマのひとつは、簡単に言えば、「時間」ということなんでしょうけれど、サナトリウムでの生活が長引くにつれ、次第に時間の感覚が麻痺していく様子が、この小説では克明に描かれます。(たとえば、葉巻に関するくだりとか。)
そして、ルーティーンから逃れるべく味わおうとする様々な療養患者との交流。
わたしは、この小説の白眉はなんといっても、上巻最後の主人公とロシア人の人妻とのフランス語による愛の会話だと思うのですが、ドイツ人とロシア人がそれぞれの母国語以外の言語で愛を語るというロマンチックさは、筆舌に尽くしがたい魅力があります。
(オムニバス映画『愛と怒り』のなかの一編、ゴダールの「愛」ってこれに影響受けてますかね?)
また、この大変読みにくい小説を一生懸命読んだ末に出会うこのくだりは砂漠の中のオアシスのような読後感さえあり、ミュンヘン行きの列車の車中でこのくだりを読んでいたわたしは、ミュンヘンに辿り着くまでにこのくだりを読み切りたい一心で、列車の到着する「時間」が引き延ばさせることを心から望み、ドキドキしながら、ページをめくりました。
読んでいる一瞬すらとぎれることを望まない、甘美な場面…。
こんな読書体験はそうそうあるものではないでしょう。
この小説の最後、結局7年もの間、サナトリウムに居ついてしまった主人公は、第一次世界大戦の勃発とともに、サナトリウムのある山を降ります。
そして、このあと主人公がどうなったのかは語られませんが、動乱の中に投げ込まれたであろう彼の運命について、この長~い小説を読みきった人間なら、思いをはせずに入られないでしょう。
さて、私事ながら恐縮ですが、なんでこの小説について今更感想を書こうと思ったのかというと、じつは、わたしも「山を降りる」。今日から仕事復帰をするからです。
怪我の療養生活は、旅行と同じくらい、わたしの人生経験を豊かにしてくれたと思いますが、怪我前、怪我後で多少人を見る目が変わりました。まあ、家にいる間は、オペラとマンガで癒されてたって感じではありますが・・・。
別の人間になって「山を降りる」というのは、病気や怪我から読書にいたるまで、すべての体験の後に控える人生のメタファーみたいなのもかもしれませんね。
というわけで、旅と怪我の思い出に。
☆ ☆ ☆
PS①:ロシアの上流階級ではフランス語が公用語なので、フランス語を習っているロシア人は多かったそうですね。あのドストエフスキーが、バルザックの小説の翻訳をしていることからも、ロシアの語学事情がわかります。
PS②:確か、映画監督ルキノ・ヴィスコンティがこの作品の映画化を目指していたんですよね。誰がロシア婦人ショーシャにキャスティングされるはずだったんだろう?見たかったなあ~。
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私も結構好きです。葉巻の場面は読み直して見なければいけませんが、第三国語での男女の会話は確かに面白いです。
お怪我が、永遠の山での滞在を思わせるほどまでとは知りませんでしたが、私も元々この作品を読破出来ない落ちこぼれ組みでしたから、怪我も光明になるのかなどとつまらない事を考えています。
くれぐれも壕などに足を滑らさないようにお気をつけ下さい。
「新興宗教がビデオで洗脳するごとく、長時間の鑑賞を強いるというのがワーグナーの毒がまわり易い原因」となる要素もこの作品に上手に暗示されてますね。
お気遣いありがとうございます。
生来、怪我病気に無縁だったもので、余計にこの小説と自分の療養が結びついてしまった気がします。
ところで、この小説の後半で、主人公が音楽に入れ込みだすくだりもわたしは興味深く読みました。
随分ページが割かれているヴェルディの「アイーダ」は療養中に映像を見ましたし、「牧神の午後」も聴き直してしまったなあ~。
今思うと、あとあとまで随分楽しめた小説でした。