買ったっきり読んでなかった芥川賞受賞作。映画にもなるというんで読んでみたら・・・。これが芥川賞か・・・。正直言って、かつての私小説(たとえば、近松秋江とか宇野浩二、葛西善蔵あたり)の方が全然面白いと思うけどな~。というわけで、簡単な感想っ。
かつての車谷長吉(『赤目四十八瀧心中未遂』の作者ね。)もそうだったけど、広告代理店的なマーケティングの発想でやってる「私小説」だと思いました。つまり、車谷長吉は貧乏無頼にあこがれているインテリで、西村賢太はインテリコンプレックスの労働者上がり。結局、どちらもインテリ(崩れ)なんであって、知性の優位性をなんら疑っていないとしか思えない。
この小説の場合、たんなるダメ男の手記に「私小説」としての箔をつけるため、所々でわざと難しい言葉を使ったりする。だけど、それは章立ての初めだけの話で、特に文体としての味にはなっていないんですよ。だから、文章レベルでは、週刊誌に出てくるような手記とあんまり変わらないって印象。
近松秋江とか宇野浩二だと、音読したくなるような語りの上手さがあって、たいしたストーリーでも無いのに、続きが読みたくなるんだけど、この作家にはそれはないですね。
つまり、昔の私小説って、落語や講談みたいな口承文化の伝統とどこかで繋がっていたんだけど、このひとにはそういうセンスは無いんだと思います。檀一雄が書いていたけど、太宰治の愛読書が三遊亭円朝全集だったっていうのが象徴するみたいなネ。
そして、主人公の北町貫多も、わたしには中途半端な悪という感じで、もうひとつ煮え切らない男に写る。また、出てくる女性もなんだか魅力が無いし・・・。(近松秋江の『黒髪』に出てくる女性なんか魅力的ですからね、謎めいていて。)別に美人を描けとはいわないけど、落語の「お直し」とか「品川心中」に出てくるような立体感のある女性なら、不美人でも面白いはずなんだけどねぇ~。
というわけで、表題作よりは『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』の方が、まだしも文章にグルーブ感がありました。ただし、かなり尾篭(びろう)な内容満載なんだけど・・・。
というわけで、少なくともこの本に関しては、わたしはバツ。評判のいい『どうで死ぬ身の一踊り』を読んでから、この作家について判断しようと思います。
かつての車谷長吉(『赤目四十八瀧心中未遂』の作者ね。)もそうだったけど、広告代理店的なマーケティングの発想でやってる「私小説」だと思いました。つまり、車谷長吉は貧乏無頼にあこがれているインテリで、西村賢太はインテリコンプレックスの労働者上がり。結局、どちらもインテリ(崩れ)なんであって、知性の優位性をなんら疑っていないとしか思えない。
この小説の場合、たんなるダメ男の手記に「私小説」としての箔をつけるため、所々でわざと難しい言葉を使ったりする。だけど、それは章立ての初めだけの話で、特に文体としての味にはなっていないんですよ。だから、文章レベルでは、週刊誌に出てくるような手記とあんまり変わらないって印象。
近松秋江とか宇野浩二だと、音読したくなるような語りの上手さがあって、たいしたストーリーでも無いのに、続きが読みたくなるんだけど、この作家にはそれはないですね。
つまり、昔の私小説って、落語や講談みたいな口承文化の伝統とどこかで繋がっていたんだけど、このひとにはそういうセンスは無いんだと思います。檀一雄が書いていたけど、太宰治の愛読書が三遊亭円朝全集だったっていうのが象徴するみたいなネ。
そして、主人公の北町貫多も、わたしには中途半端な悪という感じで、もうひとつ煮え切らない男に写る。また、出てくる女性もなんだか魅力が無いし・・・。(近松秋江の『黒髪』に出てくる女性なんか魅力的ですからね、謎めいていて。)別に美人を描けとはいわないけど、落語の「お直し」とか「品川心中」に出てくるような立体感のある女性なら、不美人でも面白いはずなんだけどねぇ~。
というわけで、表題作よりは『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』の方が、まだしも文章にグルーブ感がありました。ただし、かなり尾篭(びろう)な内容満載なんだけど・・・。
というわけで、少なくともこの本に関しては、わたしはバツ。評判のいい『どうで死ぬ身の一踊り』を読んでから、この作家について判断しようと思います。
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