今年は多少内容が無理やりであっても、なんとか歌舞伎座の舞台の感想くらいは毎月続けようと思っているので、かなり半端な感じだけど、一応、感想!
①三番叟
富十郎が立派だったなあ~、声も顔も・・・。とりあえず、それだけで満足しましたけれど・・・。
②俊寛
幸四郎の俊寛ですが・・・。
「俊寛」という芝居については今までも度々書いているので、今回は簡潔にいきますが、幸四郎の俊寛は今見ることの出来るこの役で、最も弱った俊寛だっていうのがわたしの以前からの見方です。
で、今回初めて気づいたのですが、岩陰からの出までは幸四郎の俊寛は決して弱った感じがしないんですよね。むしろ、見た目や風格は随分立派に見える。
にもかかわらず、発声した段階からぐぐっと老けだして、弱弱しい俊寛になっていくのは幸四郎のこの役にたいする解釈がそうなのだというしかないでしょう。
吉右衛門なら疲れた大物、仁左衛門なら凛としていながらセンチメンタル、猿之助であればまさに島に流された無頼の徒、といった印象を与えたそれぞれの俊寛像ですが、幸四郎の解釈はおそらく、弱った老人の最後の意地みたいなところに焦点があるのではというのがわたしの見方。
たとえば、吉右衛門の台詞の抑揚は、その音楽性(義太夫)に収斂されていくので、それほど弱弱しくは感じないのですが、幸四郎の場合は一種の心理主義的な弱さの芝居なので、どうもストレートに弱さを感じてしまうんですよね~。
なので、瀬尾を殺す場面では、よくぞこんな弱った老人が武士を殺せたものだというスリリングさはあるものの、俊寛に英雄的な悲劇は感じない。もっとも、敵役・瀬尾を演じた彦三郎がもうひとつ憎憎しげじゃないというところにも問題があるのかもしれませんけどね~。
なお、この舞台、脇役陣は堅調でした。個人的には千鳥の芝雀が可憐かつ魅せたし、康頼の歌六が予想を超えてよく、染五郎の成経も悪くなかった。それに、梅玉の丹左衛門もこの人のニンだしね~。
さて、最後の岩山がせり出して山上の俊寛が虚空を見つめる場面。わたしは、ここで台詞をしゃべらない幸四郎の俊寛が、芝居の冒頭同様、随分立派に見えました。
先代の白鸚みたいな生硬な路線で演じ直したら、新生面が見られるような気も・・・。まあ、大きなお世話ですけれど。
(参考)
・俊寛!俊寛!(以前書いた記事)
③十六夜清心(いざよいせいしん)
芝居も役者も文句なしなのに、何かもの足りなさを感じたのは、「見取り制」の悪い部分が出た演目の並びだからなんでしょうか?
確かに、海老蔵や仁左衛門に比べれば、菊五郎の清心は少しトウが立っていましたが、飄逸さやカラッとした明るさはいかにもこのヒトならでは。
時蔵も、菊五郎の「魚屋宗五郎」のお上さんで出たりするようになった頃からどこか臭味が抜けて世話物なんかも似合うようになったし、今回の十六夜もわたしは結構好きですね。
それに吉右衛門の白蓮はもちろん粋。
でも、この演目は「通し」でやんないと、やっぱり、「コレで終わりか~」感がぬぐえないし、今回の演目の並びでは、余計にそのことを感じました。
というか、もっといってしまうと、一月に多いであろう歌舞伎ビギナーに「この演目はこんなもの」と思われるのが悔しいなあ~と思いながら最後の定式幕を見つめていましたよ。
こんなこといってるのって、わたしだけですか?
④鷺娘
今回の演出をめぐっては様々なご意見があるらしいのですが、わたしは素直に「今月はコレが見れたからまあいいかっ!」って正直思いましたねぇ~。
玉三郎の「鷺娘」は引き抜き(衣装チェンジのことですよ、念のため。)の華麗さが万人向きだし、たぶん、歌舞伎ビギナーには「鏡獅子」より取っつき易いんじゃないですか?
それと、最近はそれほど回数演じてないというのもよいのかもしれない。(別に、二月の「二人道成寺」にたいするイヤミでもないのですけれど・・・。)
どうも、ここまでうまく言葉に表現できていないのですが、先日の「十種香」同様、役者の顔が見えただけで見ている側に高揚感があるというのは、この人ぐらいなんですかね~。
あの容姿はあと何年続くのかという興味もありますけれど・・・。
PS:なお、今回使った画像は、昼の部終演後、裏方さんが「鷺娘」の紙吹雪を箒で掃いているところです。箒を持っているところが見えますかね?
①三番叟
富十郎が立派だったなあ~、声も顔も・・・。とりあえず、それだけで満足しましたけれど・・・。
②俊寛
幸四郎の俊寛ですが・・・。
「俊寛」という芝居については今までも度々書いているので、今回は簡潔にいきますが、幸四郎の俊寛は今見ることの出来るこの役で、最も弱った俊寛だっていうのがわたしの以前からの見方です。
で、今回初めて気づいたのですが、岩陰からの出までは幸四郎の俊寛は決して弱った感じがしないんですよね。むしろ、見た目や風格は随分立派に見える。
にもかかわらず、発声した段階からぐぐっと老けだして、弱弱しい俊寛になっていくのは幸四郎のこの役にたいする解釈がそうなのだというしかないでしょう。
吉右衛門なら疲れた大物、仁左衛門なら凛としていながらセンチメンタル、猿之助であればまさに島に流された無頼の徒、といった印象を与えたそれぞれの俊寛像ですが、幸四郎の解釈はおそらく、弱った老人の最後の意地みたいなところに焦点があるのではというのがわたしの見方。
たとえば、吉右衛門の台詞の抑揚は、その音楽性(義太夫)に収斂されていくので、それほど弱弱しくは感じないのですが、幸四郎の場合は一種の心理主義的な弱さの芝居なので、どうもストレートに弱さを感じてしまうんですよね~。
なので、瀬尾を殺す場面では、よくぞこんな弱った老人が武士を殺せたものだというスリリングさはあるものの、俊寛に英雄的な悲劇は感じない。もっとも、敵役・瀬尾を演じた彦三郎がもうひとつ憎憎しげじゃないというところにも問題があるのかもしれませんけどね~。
なお、この舞台、脇役陣は堅調でした。個人的には千鳥の芝雀が可憐かつ魅せたし、康頼の歌六が予想を超えてよく、染五郎の成経も悪くなかった。それに、梅玉の丹左衛門もこの人のニンだしね~。
さて、最後の岩山がせり出して山上の俊寛が虚空を見つめる場面。わたしは、ここで台詞をしゃべらない幸四郎の俊寛が、芝居の冒頭同様、随分立派に見えました。
先代の白鸚みたいな生硬な路線で演じ直したら、新生面が見られるような気も・・・。まあ、大きなお世話ですけれど。
(参考)
・俊寛!俊寛!(以前書いた記事)
③十六夜清心(いざよいせいしん)
芝居も役者も文句なしなのに、何かもの足りなさを感じたのは、「見取り制」の悪い部分が出た演目の並びだからなんでしょうか?
確かに、海老蔵や仁左衛門に比べれば、菊五郎の清心は少しトウが立っていましたが、飄逸さやカラッとした明るさはいかにもこのヒトならでは。
時蔵も、菊五郎の「魚屋宗五郎」のお上さんで出たりするようになった頃からどこか臭味が抜けて世話物なんかも似合うようになったし、今回の十六夜もわたしは結構好きですね。
それに吉右衛門の白蓮はもちろん粋。
でも、この演目は「通し」でやんないと、やっぱり、「コレで終わりか~」感がぬぐえないし、今回の演目の並びでは、余計にそのことを感じました。
というか、もっといってしまうと、一月に多いであろう歌舞伎ビギナーに「この演目はこんなもの」と思われるのが悔しいなあ~と思いながら最後の定式幕を見つめていましたよ。
こんなこといってるのって、わたしだけですか?
④鷺娘
今回の演出をめぐっては様々なご意見があるらしいのですが、わたしは素直に「今月はコレが見れたからまあいいかっ!」って正直思いましたねぇ~。
玉三郎の「鷺娘」は引き抜き(衣装チェンジのことですよ、念のため。)の華麗さが万人向きだし、たぶん、歌舞伎ビギナーには「鏡獅子」より取っつき易いんじゃないですか?
それと、最近はそれほど回数演じてないというのもよいのかもしれない。(別に、二月の「二人道成寺」にたいするイヤミでもないのですけれど・・・。)
どうも、ここまでうまく言葉に表現できていないのですが、先日の「十種香」同様、役者の顔が見えただけで見ている側に高揚感があるというのは、この人ぐらいなんですかね~。
あの容姿はあと何年続くのかという興味もありますけれど・・・。
PS:なお、今回使った画像は、昼の部終演後、裏方さんが「鷺娘」の紙吹雪を箒で掃いているところです。箒を持っているところが見えますかね?
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