東海道53次珍道中<保土ヶ谷~戸塚>
平成23年2月26日(土) 約2ヶ月ぶりのウォーキングである。もっと前に歩く予定が雪や用事で延期になり、前回の珍道中から早2ヶ月余りが経ってしまった。身体とは不思議なもので、約一ヶ月ごと歩いていたものが、2ヶ月も空けるとむずむずしてきて、歩きたいという欲求が湧き上が り、今回は特に期待を胸に膨らませての行幸であった。
今回も9時30分東神奈川駅で、千明さんを待ち合わせ。前日は小春日和であったので、私は少々薄着で来てしまったが、千秋さんは、例の見た目は数十万円実は数千円という超破格値のメタリックブルーのコートに身を包み、ばっちり防寒対策をして現れた。それに日差し対策に帽子まで用意して、い つもながら用意周到な千明さんに脱帽である。
東神奈川から保土ヶ谷まで電車で移動。さあ、いよいよ第5回東海道53次珍道中の開始である。
と、無鉄砲に歩き始めたが、何やらおかしい。どうも駅の反対側を降りて、逆方向に歩いてきてしまったらしい。駐輪場の方に聞いて納得。聞けば何でもないことがこんな失敗を招く。この浅はかさは何にでも通じると自戒し、これからは「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」(こんなときに使っていい慣用句なのかは分からないが)を肝に銘じ歩みを進めようと確認し合った。
まずは保土ヶ谷宿である。JR線の踏切を渡ると国道1号線にぶつかるが、このT字路の真正面にあるのが保土ヶ谷宿本陣跡である。代々苅部家が受け継いでいて、明治になって軽部と名乗って今もこの地に住み続けているらしい。どうりで近くにこの苗字の表札が多かった。本陣跡は中には入れないが 、塀の外から屋根や格子を垣間見ることができた。屋根の色は薄鶯色で剥げているところがあり、年月の蓄積を感じられ、建物自体は何度も外壁を塗りなおして今なお現存させているのが分かるくらい、黒光りしていた。今の建築とはまるっきり違う、重厚で風格ある趣を兼ね備えた平屋造りになっていた。昔はこの街道に沿って宿 場町になっていて、宿泊や休憩ができる本陣や脇本陣・茶屋本陣・旅籠やなどが並んでいた。
しばらく歩くと道左側を流れる小川の柵に、一里塚の立て札があった。日本橋から一里(4キロ)ごとにおかれたのが一里塚で、松などの目立つ木を植えて遠くから分かるようにしたとのことである。歴史の道として整備されていた。
いよいよ年始恒例の箱根駅伝の難関の坂として有名な「権太坂」に入る。国道1号線をそのまま歩いていくと整備されているせいか、あまり急な感じがしない道をだらだらと登っていった。果たしてその道でいいのかと考えながら歩いていく。先ほどの「聞くは~」を思い出し、前を歩く女の方に聞いてみたら、やはりこの道で方向的にはいい という。そして安心して私たちはまた歩き出した。そしてしばらく歩いてその女の人を抜かそうとしたときに、何やらずーと考えていたことを切り出すように、その女の人は言った。「旧東海道の道は他にもありますよ」と。私たちが尋ねたことを考えてくれて、東海道を歩いていると察してくれたのである。それにはだいぶ戻って 歩きなおさなければならないが、旧東海道を歩くのが私たちの本分であるので、この女の人の優しさが強く感じられた一幕であった。感謝。
道を戻り、分かれ目であるだろう所にガソリンスタンド兼コーヒーショップがあったのでそこで一休憩して、もう一度旧東海道への戻り方を店長にしっかり聞いてから出発した。なるほど、ちょっと入り組んでいて道の迷うのも致し方ないかな~と思った。 そこで食べたコーヒーゼリー、クリームたっぷりでおいしかった 。
さて、権太坂に入る。昔はこの坂を登りきれずに途中で倒れてしまう人が出るほど急坂であったそうだ。行き倒れた人を葬った投込塚と呼ばれる場所があるくらいである。今は改修してあるのでさほどでもないが、やはり坂は坂である。途中権太坂の由来と写真が載っている立て看板があった。由来は耳 の悪い老人にここは何という名前かと地名を尋ねたのに老人は自分の名前を答えて「権太」という名がついたということである。また写真は昭和初期の林間学校で子どもたちが林の中を散歩している様子が写っていたが、この感じが江戸時代の街道そのものなんだなと変に感心してしまった。
権太坂を登りきりしばらく、見晴らしの良いところを歩いていく。海はどっちの方かと考えながら左手の方のちょっとした駐車場で立ち止まり、景色を見る。ランドマークタワーが見えたのでやはりこっちだったと納得して、道の反対側を見ると、「アゲヤ本舗」と書かれた暖簾が下がっている。 小腹が空いてきたのでそこでも、一服。「パンパオ」というたこ焼きみたいなんだけど中はひき肉で外はもちもちとしたパンを揚げているのを食す。隣が駐車場になっていて天気がよければ富士山が見えるという絶景ポイントで揚げたてのパンパオを食べたが、それの熱いこと。思わず立ち上がり、ハフハフしながら、やっと食べた 。残念ながら富士山は見えなかったが、その方向に小高い丘を発見。千秋さんは城壁と言い、私は古墳だと言い、お店の人に聞いてみたら、何とゴミ捨て場、いっきに興ざめ。
道なりにまっすぐ進むと、地蔵堂が見えてきた。境木地蔵である。その名のとおり武蔵と相模の国境に建てられたものである。旅の無事を祈り、さい銭をなげてきた。
境木地蔵を左に進むと「焼餅坂」がある。そのまま歩いていくと、道の両側に一里塚が現存している。そこが品濃一里塚である。木が生い茂っていて分かりづらいが、盛り土や道の両側に分かれて立っている一里塚の形は江戸時代のままだというのでそれはそれで感慨深い。日本橋から九里(約36キロ)になる。
果樹園が所々にあるところを進んでいき、大きな道路に出た。環状二号線か国道一号線か。このまま戸塚宿の方に行くのだが、その前に本日の最大の名所である「護良親王の首洗い塚」を目指す。
例によって千秋さんが調べてきてくれたことをここで披露すると、私たちが住んでいるこの「淵野辺」。南北朝時代、この淵野辺村の領主であったのが淵野辺義博という武士で、足利尊氏の弟直義の部下であった。義直の命により、後醍醐天皇の子どもである護良親王の首をとったのが、この淵野辺義博その人であるということである。それを聞いて俄然、この首洗い塚が身 近に感じられてきた。また、余談であるが私の父や母が眠る「龍像寺」はその義博が龍を退治して、頭・胴・尾に切り分け、胴を祭って龍胴寺を建て、それが変化して今の名になったと言われている。何だか不思議な縁を感じてしまった。
護良親王の首洗い塚は住宅街の中に忽然とあり、5メートル位の細長い土地に大きな石の碑が立ってあり、その脇に首を洗ったであろう井戸の片鱗があった。この辺で淵野辺義博は幽閉されていた護良親王の首をはね、野原に捨て去ったのであろうか。そして京から護良親王を救出にやっ てきた藤原藤房の一行が親王が殺されたことを知って、足利方より親王の首を探し出して、この井戸で洗い清めたらしい。
合掌。現在はこの辺も開発されていて、そんな物騒なことを想像だにできないが、昔はこんなこともあったんだなと、時空を超えて考えた。
その後はひたすら、戸塚宿を目指して進む。実はその後に私は町田の「エルシイ」にのっぴきならぬ用事があり、5時30分までに戻らなければならない。このときの時間は3時頃であったか。遅い昼飯を戸塚駅のレストランで食べ、一息を入れて、戸塚を後にする。ここでのランチはハンバーグや野菜が盛り合わせ られていて、スープやコーヒーが付いて1180円とリーズナブルでおいしかった。カレー味の具沢山のスープはとてもおいしかったので、家でまねして作ってみたら、思いのほかおいしくできた。作り方は、玉ねぎ・ウインナー・人参・ジャガイモ等を薄切りにして、水とコンソメを入れて圧力鍋で10分位煮る。それにカレールーのひとかけらを入れたら出来上がりである。
いつものように、旅の思い出を振り返り、こんな楽しいことをできる幸せに感謝しながら締めくくる。 約21700歩 約8キロ位かな?
平成23年2月26日(土) 約2ヶ月ぶりのウォーキングである。もっと前に歩く予定が雪や用事で延期になり、前回の珍道中から早2ヶ月余りが経ってしまった。身体とは不思議なもので、約一ヶ月ごと歩いていたものが、2ヶ月も空けるとむずむずしてきて、歩きたいという欲求が湧き上が り、今回は特に期待を胸に膨らませての行幸であった。
今回も9時30分東神奈川駅で、千明さんを待ち合わせ。前日は小春日和であったので、私は少々薄着で来てしまったが、千秋さんは、例の見た目は数十万円実は数千円という超破格値のメタリックブルーのコートに身を包み、ばっちり防寒対策をして現れた。それに日差し対策に帽子まで用意して、い つもながら用意周到な千明さんに脱帽である。
東神奈川から保土ヶ谷まで電車で移動。さあ、いよいよ第5回東海道53次珍道中の開始である。
と、無鉄砲に歩き始めたが、何やらおかしい。どうも駅の反対側を降りて、逆方向に歩いてきてしまったらしい。駐輪場の方に聞いて納得。聞けば何でもないことがこんな失敗を招く。この浅はかさは何にでも通じると自戒し、これからは「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」(こんなときに使っていい慣用句なのかは分からないが)を肝に銘じ歩みを進めようと確認し合った。
まずは保土ヶ谷宿である。JR線の踏切を渡ると国道1号線にぶつかるが、このT字路の真正面にあるのが保土ヶ谷宿本陣跡である。代々苅部家が受け継いでいて、明治になって軽部と名乗って今もこの地に住み続けているらしい。どうりで近くにこの苗字の表札が多かった。本陣跡は中には入れないが 、塀の外から屋根や格子を垣間見ることができた。屋根の色は薄鶯色で剥げているところがあり、年月の蓄積を感じられ、建物自体は何度も外壁を塗りなおして今なお現存させているのが分かるくらい、黒光りしていた。今の建築とはまるっきり違う、重厚で風格ある趣を兼ね備えた平屋造りになっていた。昔はこの街道に沿って宿 場町になっていて、宿泊や休憩ができる本陣や脇本陣・茶屋本陣・旅籠やなどが並んでいた。
しばらく歩くと道左側を流れる小川の柵に、一里塚の立て札があった。日本橋から一里(4キロ)ごとにおかれたのが一里塚で、松などの目立つ木を植えて遠くから分かるようにしたとのことである。歴史の道として整備されていた。
いよいよ年始恒例の箱根駅伝の難関の坂として有名な「権太坂」に入る。国道1号線をそのまま歩いていくと整備されているせいか、あまり急な感じがしない道をだらだらと登っていった。果たしてその道でいいのかと考えながら歩いていく。先ほどの「聞くは~」を思い出し、前を歩く女の方に聞いてみたら、やはりこの道で方向的にはいい という。そして安心して私たちはまた歩き出した。そしてしばらく歩いてその女の人を抜かそうとしたときに、何やらずーと考えていたことを切り出すように、その女の人は言った。「旧東海道の道は他にもありますよ」と。私たちが尋ねたことを考えてくれて、東海道を歩いていると察してくれたのである。それにはだいぶ戻って 歩きなおさなければならないが、旧東海道を歩くのが私たちの本分であるので、この女の人の優しさが強く感じられた一幕であった。感謝。
道を戻り、分かれ目であるだろう所にガソリンスタンド兼コーヒーショップがあったのでそこで一休憩して、もう一度旧東海道への戻り方を店長にしっかり聞いてから出発した。なるほど、ちょっと入り組んでいて道の迷うのも致し方ないかな~と思った。 そこで食べたコーヒーゼリー、クリームたっぷりでおいしかった 。
さて、権太坂に入る。昔はこの坂を登りきれずに途中で倒れてしまう人が出るほど急坂であったそうだ。行き倒れた人を葬った投込塚と呼ばれる場所があるくらいである。今は改修してあるのでさほどでもないが、やはり坂は坂である。途中権太坂の由来と写真が載っている立て看板があった。由来は耳 の悪い老人にここは何という名前かと地名を尋ねたのに老人は自分の名前を答えて「権太」という名がついたということである。また写真は昭和初期の林間学校で子どもたちが林の中を散歩している様子が写っていたが、この感じが江戸時代の街道そのものなんだなと変に感心してしまった。
権太坂を登りきりしばらく、見晴らしの良いところを歩いていく。海はどっちの方かと考えながら左手の方のちょっとした駐車場で立ち止まり、景色を見る。ランドマークタワーが見えたのでやはりこっちだったと納得して、道の反対側を見ると、「アゲヤ本舗」と書かれた暖簾が下がっている。 小腹が空いてきたのでそこでも、一服。「パンパオ」というたこ焼きみたいなんだけど中はひき肉で外はもちもちとしたパンを揚げているのを食す。隣が駐車場になっていて天気がよければ富士山が見えるという絶景ポイントで揚げたてのパンパオを食べたが、それの熱いこと。思わず立ち上がり、ハフハフしながら、やっと食べた 。残念ながら富士山は見えなかったが、その方向に小高い丘を発見。千秋さんは城壁と言い、私は古墳だと言い、お店の人に聞いてみたら、何とゴミ捨て場、いっきに興ざめ。
道なりにまっすぐ進むと、地蔵堂が見えてきた。境木地蔵である。その名のとおり武蔵と相模の国境に建てられたものである。旅の無事を祈り、さい銭をなげてきた。
境木地蔵を左に進むと「焼餅坂」がある。そのまま歩いていくと、道の両側に一里塚が現存している。そこが品濃一里塚である。木が生い茂っていて分かりづらいが、盛り土や道の両側に分かれて立っている一里塚の形は江戸時代のままだというのでそれはそれで感慨深い。日本橋から九里(約36キロ)になる。
果樹園が所々にあるところを進んでいき、大きな道路に出た。環状二号線か国道一号線か。このまま戸塚宿の方に行くのだが、その前に本日の最大の名所である「護良親王の首洗い塚」を目指す。
例によって千秋さんが調べてきてくれたことをここで披露すると、私たちが住んでいるこの「淵野辺」。南北朝時代、この淵野辺村の領主であったのが淵野辺義博という武士で、足利尊氏の弟直義の部下であった。義直の命により、後醍醐天皇の子どもである護良親王の首をとったのが、この淵野辺義博その人であるということである。それを聞いて俄然、この首洗い塚が身 近に感じられてきた。また、余談であるが私の父や母が眠る「龍像寺」はその義博が龍を退治して、頭・胴・尾に切り分け、胴を祭って龍胴寺を建て、それが変化して今の名になったと言われている。何だか不思議な縁を感じてしまった。
護良親王の首洗い塚は住宅街の中に忽然とあり、5メートル位の細長い土地に大きな石の碑が立ってあり、その脇に首を洗ったであろう井戸の片鱗があった。この辺で淵野辺義博は幽閉されていた護良親王の首をはね、野原に捨て去ったのであろうか。そして京から護良親王を救出にやっ てきた藤原藤房の一行が親王が殺されたことを知って、足利方より親王の首を探し出して、この井戸で洗い清めたらしい。
合掌。現在はこの辺も開発されていて、そんな物騒なことを想像だにできないが、昔はこんなこともあったんだなと、時空を超えて考えた。
その後はひたすら、戸塚宿を目指して進む。実はその後に私は町田の「エルシイ」にのっぴきならぬ用事があり、5時30分までに戻らなければならない。このときの時間は3時頃であったか。遅い昼飯を戸塚駅のレストランで食べ、一息を入れて、戸塚を後にする。ここでのランチはハンバーグや野菜が盛り合わせ られていて、スープやコーヒーが付いて1180円とリーズナブルでおいしかった。カレー味の具沢山のスープはとてもおいしかったので、家でまねして作ってみたら、思いのほかおいしくできた。作り方は、玉ねぎ・ウインナー・人参・ジャガイモ等を薄切りにして、水とコンソメを入れて圧力鍋で10分位煮る。それにカレールーのひとかけらを入れたら出来上がりである。
いつものように、旅の思い出を振り返り、こんな楽しいことをできる幸せに感謝しながら締めくくる。 約21700歩 約8キロ位かな?