古の都 飛鳥・吉野・葛城へ行ってきました。
平成23年4月29日(金) 世の中はゴールデンウイークに突入し、5月2日と6日を休めば何と10連休になるといういうその初日、私たちは西に車を走らせていた。午前7時、主人はもっと早く5時頃には出たかったようだが、末っ子の部活の練習に行くのを送り出してからという私の気持ちが、うだうだとしてしまった。
しばらくいくと、この2時間の遅れを後悔し始める。厚木インターまでの道もそれに高速道路に乗ってからも、走路は断続的に渋滞していて、これはもう一日がかりで吉野まで行くようになると心を決める。
途中、白く雪で覆われている富士山の頂上が道路の進行方向にはっきりと顔を出して私の目を楽しませてくれた。思わず、童謡「富士の山」を2番まで口ずさんでしまった。富士の雄姿を見るたびに心が高揚し、やっぱり自分は日本人なんだなーと改めて感じてしまう。ただ、天気は良いが風は強い。浜名湖付近では車のハンドルが取られそうになり主人はいつもよりしっかりとハンドルを握っていた。後になって「車が浮いてしまうんじゃないか。怖い思いをした。」と言っていた。
風も強いし、車の渋滞もひどくなってきたので、それに、一般道を見ると、どうもそちらの方はスムーズに流れている感じがするので、思い切って袋井インターで一般道に下りた。でも、これからの道のりも長かった。静岡県では横に長い県だなと感じ、愛知県ではトヨタ車が多いなと思い、三重県では湾岸の方を走って、まさに教科書に出てくる戦後工業の発達により「四日市ぜんそく」の公害が出てしまったコンビナート風景を見ながら、そしてガソリンが減ってきて早く給油しなきゃとあせりながら、でも三重県は国道でもガソリンスタンドなんかあまりなく、心配しながらもやっと一軒あって給油して、国道1号線と国道25号線をひたすら走り続け、何と夜の11時30分頃奈良県の宇陀の道の駅へ着くことができた。
今回の旅は、初めての試みで、宿を決めないで、車に寝袋を積んで行っている。カーナビを頼りに道の駅の住所を入力しておいて、そこから基点に吉野の名所を見ようというのだ。こんなに遅く着いてもちゃんと道の駅は明かりがついていて、同じように泊まっている車も居て、心強かった。
4月30日朝5時。疲れていたのか、狭い場所でもこの時間まで、ぐっすり寝ることができた。昨日は一日かかって、この地まで来たので、今日はたっぷりと古代の歴史に触れ合おうとしよう。
まずはじめに訪れたのは、大神(おおみわ)神社。日本の古い神社の一つとされ、島根県にある出雲大社と並び称されるほどの神社である。ここは三輪そうめんで有名な奈良県三輪にあり、蛇がとぐろを巻いたような形とされる三輪山を御神体に持つ古い格式のある神社である。入り口にはそれこそ天を見上げるような大きな石つくりの鳥居があり、その大神神社が地域の中心であったのが分かる。シーンとして木々のうっそうとした参道を進むとそこは、別世界に入り込むような空間があり、そこに現れたのは、神社の本堂である。天皇陛下御下賜と書かれた立て札の前に祝詞がおいてあったり、お百度を数えるためのそろばんみたいのが備えてあったりと、そして実際若い女の人がお百度をしていたり、地域の人たちのよりどころになっているのであろう。お参りしたことを残せる記帳台もあり、思わず記してきた。
次に行ったのは、箸墓古墳辺り。近くには行けずに民家の空き地から線路沿いに広角に古墳を見ることができた。大和朝廷説の人は、この古墳は卑弥呼の墓であるのではないかといわれているそうである。なぜなら、崇神(すにん)天皇の墓よりも大きいからであるそうな。確かに、こんもりと形良く盛られていて、そう言われみると品があるように思われる。
そして、山田寺跡に行く。この山田寺は、大化の改新後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が建立した飛鳥時代を代表するお寺であったようだ。でも、一部の金堂ができた後、石川麻呂が亡くなり、完成するのは40年もたった後のようである。現在は平らに広く草が敷かれ、ただっ広い草原が残っているだけである。規制されているのか、建物などもなく昔のままの状態であるようで、静かに目を閉じて自然の音だけに耳を傾けると、飛鳥時代にタイムスリップした感覚に陥る。
明日香村には、たくさんの史跡がある。まずは日本最初のお寺でもあり、蘇我馬子が建てたという飛鳥寺。そこには現存する日本最古の木造の仏像が鎮座していた。そして、飛鳥板葺宮跡。斉明天皇(皇極天皇)天武天皇や持統天皇がそこで政をしていたというから、感慨もひとしおである。百人一首で有名な「天の香具山」も見えた。平地の上にこんもりと盛られた、それ程大きいとはいえない山であった。甘樫丘(あまかすのおか)は板葺宮と飛鳥川で隔てた高台にあり、そこは蘇我馬子・入鹿親子の邸宅であった。上に上ると、この明日香村が一望でき、蘇我氏の勢力の強さを物語っていた。
いよいよ吉野へ行く。古代の吉野は今の吉野山を称してたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいたとされる。まず行ったのは、淨見原神社。吉野宮から車で10分位走ったところにあり、吉野川上流の村の奥深いところで、細い山道を5分位歩いた所に、片側を崖のところにくっつけたように建っていた。階段を上ったところに苔むした祠があり、それはもう神秘的でそこにあるだけで敬服してしまうような存在感があった。そこまでに行く道のりは、風光明媚で吉野川がゆったり穏やかに流れ、周りの景色を川面に写し、ここでなければみられない風景が続いていた。天武天皇(清見原天皇)が近江朝廷から放たれた刺客から逃げて、隠れたところとされる。こんな人里から離れたさびしいところに逃げてきたら敵だって見つけられますまい。この地に住んでいた老人夫婦が供御を賜り、やがて追っ手の敵が迫ってくると船にお隠しして難をお救い申し上げたとされる。それが謡曲「国栖(くず)」として、今でも宮中で演奏されているそうである。余談であるが、この辺に住んでいた縄文人を弥生人は「くず」と呼んでいたそうである。吉野川沿岸には多くの縄文土器が発掘されており、住んでいたのが分かる。
次に行ったのが、吉野宮があった辺りである。吉野歴史資料館が宮滝遺跡や古代吉野のあゆみや文化を展示していたので、それを見た。吉野宮は飛鳥時代斉明天皇(天智天皇と天武天皇の母親)が造営したとされ、その後、壬申の乱前大津京から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が過ごし、乱が勃発した時に挙兵したのもこの離宮からであるらしい。天武天皇やその妃である持統天皇(天智天皇の娘でもある)も頻繁に吉野宮へ行幸したとされる。
歴史資料館近くに宮滝遺跡があり、そこでは多くの縄文土器がでている。そこの柴橋からの展望は、吉野川が優雅に流れ、川面に周りの景色を吸収しようとばかりに映し出し、言葉に絶するほどの見事な優美な景色をはなっていた。持統天皇も柿本人麻呂をお供にこの見事な景色を何度も堪能したそうである。「山川も 依りて仕ふる神ながら 激つ河内に船出せすかも」と人麻呂が詠んだ句が説明板に書いてあった。実際、持統天皇は在位中31回もこの吉野宮へ行幸したということである。吉野川が優雅に流れ、船を下りながらこの風光明媚な景色を独り占めできる感覚は分かるような気がする。よほど気に入ったのであろう。また、吉野山に南朝の皇居があったときに幼い親王が、吉野川の水面に映える松の美しさを愛でられ「この松を天皇に奉ろう、岩ごと皇居に持ち帰れ」言ってお供のものを困らせたという逸話が残ってもいた。
近くにしょうゆを作っている蔵元があったのでそこでお土産のしょうゆとポン酢を買ってきた。試食したらことのほかおいしかったので。そこの主人がここは調整区域だから家とかに手を加えられないと言っていた。ちょっと掘れば、歴史的遺物が出てくるかもしれない。
その後、縄文時代から信仰を集めていた妹背山を御神体とする大名持神社、3千年前の神社で縄文人もお参りに来たとされる高鳴神社(大国主命の三人の息子のうちの一人あじすきたかひこねを祭る)、葛城山(この辺を治めた葛城氏は王妃を輩出する家柄)の麓にある一言神社、鴨都派神社(大国主命のもう一人、ことしろぬしを祭る)へ行って、一通りの古代の散策は終了となった。ちなみに、三人の息子のもう一人、たけみなかたのみことは長野県の諏訪神社に祭られている。そして三人の親である大国主命は出雲大社に、すさのうのみことは熊野神社にそれぞれ奉られているということだ。
飛鳥・吉野・葛城とたくさん回って、やはり、奈良は歴史の宝庫であると実感できた。知れば知るだけ奥が深くて、私のこの単細胞では理解ができないことも多々あったが古代の人が歩んだ足跡が断片的にでも残されていて、少し悠久の時を過ごせたようだ。
その後、スパに寄り旅の疲れを癒し、亀山の道の駅まで行って、少し休んでから、帰路についた。高速道路では休み休み休憩を取りながら、帰りはゆっくりと帰ってきた。朝早かったことと5月1日で明日は平日だということもあり、混むこともなく家に着いた。自宅から奈良まで約500キロ、往復1000キロ、それに向こうでぐるぐる回ったので、約1200キロの工程であった。ずーと運転した主人に頭の下がる思いである。ご苦労様でした。もう嫌だと言っていた。
平成23年4月29日(金) 世の中はゴールデンウイークに突入し、5月2日と6日を休めば何と10連休になるといういうその初日、私たちは西に車を走らせていた。午前7時、主人はもっと早く5時頃には出たかったようだが、末っ子の部活の練習に行くのを送り出してからという私の気持ちが、うだうだとしてしまった。
しばらくいくと、この2時間の遅れを後悔し始める。厚木インターまでの道もそれに高速道路に乗ってからも、走路は断続的に渋滞していて、これはもう一日がかりで吉野まで行くようになると心を決める。
途中、白く雪で覆われている富士山の頂上が道路の進行方向にはっきりと顔を出して私の目を楽しませてくれた。思わず、童謡「富士の山」を2番まで口ずさんでしまった。富士の雄姿を見るたびに心が高揚し、やっぱり自分は日本人なんだなーと改めて感じてしまう。ただ、天気は良いが風は強い。浜名湖付近では車のハンドルが取られそうになり主人はいつもよりしっかりとハンドルを握っていた。後になって「車が浮いてしまうんじゃないか。怖い思いをした。」と言っていた。
風も強いし、車の渋滞もひどくなってきたので、それに、一般道を見ると、どうもそちらの方はスムーズに流れている感じがするので、思い切って袋井インターで一般道に下りた。でも、これからの道のりも長かった。静岡県では横に長い県だなと感じ、愛知県ではトヨタ車が多いなと思い、三重県では湾岸の方を走って、まさに教科書に出てくる戦後工業の発達により「四日市ぜんそく」の公害が出てしまったコンビナート風景を見ながら、そしてガソリンが減ってきて早く給油しなきゃとあせりながら、でも三重県は国道でもガソリンスタンドなんかあまりなく、心配しながらもやっと一軒あって給油して、国道1号線と国道25号線をひたすら走り続け、何と夜の11時30分頃奈良県の宇陀の道の駅へ着くことができた。
今回の旅は、初めての試みで、宿を決めないで、車に寝袋を積んで行っている。カーナビを頼りに道の駅の住所を入力しておいて、そこから基点に吉野の名所を見ようというのだ。こんなに遅く着いてもちゃんと道の駅は明かりがついていて、同じように泊まっている車も居て、心強かった。
4月30日朝5時。疲れていたのか、狭い場所でもこの時間まで、ぐっすり寝ることができた。昨日は一日かかって、この地まで来たので、今日はたっぷりと古代の歴史に触れ合おうとしよう。
まずはじめに訪れたのは、大神(おおみわ)神社。日本の古い神社の一つとされ、島根県にある出雲大社と並び称されるほどの神社である。ここは三輪そうめんで有名な奈良県三輪にあり、蛇がとぐろを巻いたような形とされる三輪山を御神体に持つ古い格式のある神社である。入り口にはそれこそ天を見上げるような大きな石つくりの鳥居があり、その大神神社が地域の中心であったのが分かる。シーンとして木々のうっそうとした参道を進むとそこは、別世界に入り込むような空間があり、そこに現れたのは、神社の本堂である。天皇陛下御下賜と書かれた立て札の前に祝詞がおいてあったり、お百度を数えるためのそろばんみたいのが備えてあったりと、そして実際若い女の人がお百度をしていたり、地域の人たちのよりどころになっているのであろう。お参りしたことを残せる記帳台もあり、思わず記してきた。
次に行ったのは、箸墓古墳辺り。近くには行けずに民家の空き地から線路沿いに広角に古墳を見ることができた。大和朝廷説の人は、この古墳は卑弥呼の墓であるのではないかといわれているそうである。なぜなら、崇神(すにん)天皇の墓よりも大きいからであるそうな。確かに、こんもりと形良く盛られていて、そう言われみると品があるように思われる。
そして、山田寺跡に行く。この山田寺は、大化の改新後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が建立した飛鳥時代を代表するお寺であったようだ。でも、一部の金堂ができた後、石川麻呂が亡くなり、完成するのは40年もたった後のようである。現在は平らに広く草が敷かれ、ただっ広い草原が残っているだけである。規制されているのか、建物などもなく昔のままの状態であるようで、静かに目を閉じて自然の音だけに耳を傾けると、飛鳥時代にタイムスリップした感覚に陥る。
明日香村には、たくさんの史跡がある。まずは日本最初のお寺でもあり、蘇我馬子が建てたという飛鳥寺。そこには現存する日本最古の木造の仏像が鎮座していた。そして、飛鳥板葺宮跡。斉明天皇(皇極天皇)天武天皇や持統天皇がそこで政をしていたというから、感慨もひとしおである。百人一首で有名な「天の香具山」も見えた。平地の上にこんもりと盛られた、それ程大きいとはいえない山であった。甘樫丘(あまかすのおか)は板葺宮と飛鳥川で隔てた高台にあり、そこは蘇我馬子・入鹿親子の邸宅であった。上に上ると、この明日香村が一望でき、蘇我氏の勢力の強さを物語っていた。
いよいよ吉野へ行く。古代の吉野は今の吉野山を称してたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいたとされる。まず行ったのは、淨見原神社。吉野宮から車で10分位走ったところにあり、吉野川上流の村の奥深いところで、細い山道を5分位歩いた所に、片側を崖のところにくっつけたように建っていた。階段を上ったところに苔むした祠があり、それはもう神秘的でそこにあるだけで敬服してしまうような存在感があった。そこまでに行く道のりは、風光明媚で吉野川がゆったり穏やかに流れ、周りの景色を川面に写し、ここでなければみられない風景が続いていた。天武天皇(清見原天皇)が近江朝廷から放たれた刺客から逃げて、隠れたところとされる。こんな人里から離れたさびしいところに逃げてきたら敵だって見つけられますまい。この地に住んでいた老人夫婦が供御を賜り、やがて追っ手の敵が迫ってくると船にお隠しして難をお救い申し上げたとされる。それが謡曲「国栖(くず)」として、今でも宮中で演奏されているそうである。余談であるが、この辺に住んでいた縄文人を弥生人は「くず」と呼んでいたそうである。吉野川沿岸には多くの縄文土器が発掘されており、住んでいたのが分かる。
次に行ったのが、吉野宮があった辺りである。吉野歴史資料館が宮滝遺跡や古代吉野のあゆみや文化を展示していたので、それを見た。吉野宮は飛鳥時代斉明天皇(天智天皇と天武天皇の母親)が造営したとされ、その後、壬申の乱前大津京から逃れた大海人皇子(後の天武天皇)が過ごし、乱が勃発した時に挙兵したのもこの離宮からであるらしい。天武天皇やその妃である持統天皇(天智天皇の娘でもある)も頻繁に吉野宮へ行幸したとされる。
歴史資料館近くに宮滝遺跡があり、そこでは多くの縄文土器がでている。そこの柴橋からの展望は、吉野川が優雅に流れ、川面に周りの景色を吸収しようとばかりに映し出し、言葉に絶するほどの見事な優美な景色をはなっていた。持統天皇も柿本人麻呂をお供にこの見事な景色を何度も堪能したそうである。「山川も 依りて仕ふる神ながら 激つ河内に船出せすかも」と人麻呂が詠んだ句が説明板に書いてあった。実際、持統天皇は在位中31回もこの吉野宮へ行幸したということである。吉野川が優雅に流れ、船を下りながらこの風光明媚な景色を独り占めできる感覚は分かるような気がする。よほど気に入ったのであろう。また、吉野山に南朝の皇居があったときに幼い親王が、吉野川の水面に映える松の美しさを愛でられ「この松を天皇に奉ろう、岩ごと皇居に持ち帰れ」言ってお供のものを困らせたという逸話が残ってもいた。
近くにしょうゆを作っている蔵元があったのでそこでお土産のしょうゆとポン酢を買ってきた。試食したらことのほかおいしかったので。そこの主人がここは調整区域だから家とかに手を加えられないと言っていた。ちょっと掘れば、歴史的遺物が出てくるかもしれない。
その後、縄文時代から信仰を集めていた妹背山を御神体とする大名持神社、3千年前の神社で縄文人もお参りに来たとされる高鳴神社(大国主命の三人の息子のうちの一人あじすきたかひこねを祭る)、葛城山(この辺を治めた葛城氏は王妃を輩出する家柄)の麓にある一言神社、鴨都派神社(大国主命のもう一人、ことしろぬしを祭る)へ行って、一通りの古代の散策は終了となった。ちなみに、三人の息子のもう一人、たけみなかたのみことは長野県の諏訪神社に祭られている。そして三人の親である大国主命は出雲大社に、すさのうのみことは熊野神社にそれぞれ奉られているということだ。
飛鳥・吉野・葛城とたくさん回って、やはり、奈良は歴史の宝庫であると実感できた。知れば知るだけ奥が深くて、私のこの単細胞では理解ができないことも多々あったが古代の人が歩んだ足跡が断片的にでも残されていて、少し悠久の時を過ごせたようだ。
その後、スパに寄り旅の疲れを癒し、亀山の道の駅まで行って、少し休んでから、帰路についた。高速道路では休み休み休憩を取りながら、帰りはゆっくりと帰ってきた。朝早かったことと5月1日で明日は平日だということもあり、混むこともなく家に着いた。自宅から奈良まで約500キロ、往復1000キロ、それに向こうでぐるぐる回ったので、約1200キロの工程であった。ずーと運転した主人に頭の下がる思いである。ご苦労様でした。もう嫌だと言っていた。