平成24年5月19日、前回の東海道53次に行った折に遭遇した「智方神社」での護良親王の墓を隠すために、その神社は「白馬伝説」を立てて、カムフラージュしたということが、妙に頭に残っていて、今回その護良親王が足利尊氏によって閉じ込められていたという「土牢」(つちろう)に行ってきた。
場所は鎌倉市二階堂にある鎌倉宮。
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護良親王は大塔宮(おおとうのみや)とも呼ばれている。1308年に後醍醐天皇の皇子として誕生し、6歳にして比叡山延暦寺に入ったが、後醍醐天皇が倒幕を決意すると還俗して、楠木正成らと挙兵し、吉野山で戦ったとある。その時、足利高氏(この時はまだ尊氏ではない)は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉を攻めて、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇が権力を握った。いわゆる「建武の中興」である。
話は、余談になるが、
4月上旬に行った吉野山で周りを見ながら歩いていると、「大日寺」なるものがあって、この看板には
「1333年、元弘の変の時に、後醍醐天皇の皇子護良親王の身代わりになって忠死した村上父子の菩提寺である」と説明書きがしてあった。
なるほどこの戦いのことであったのかと納得した。
そして、この鎌倉宮には村上義光(よしてる)父子も祀られてあり、その名も「身代わり地蔵」とあった。
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親王はこの「建武の中興」の功により征夷大将軍になるが、足利尊氏との間で対立が深まり、尊氏の奸策により逆賊の濡れ衣を着せられて捉えられ、鎌倉のこの地の土牢にに幽閉されたのである。約9ヶ月の間、閉じ込められていたという。
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そして、1335年7月、北条時行は残党を集めて鎌倉に攻めいり、この辺を統治していた相模守で足利尊氏の弟直義と戦い、この戦いに敗れた直義は逃れる際に、家臣淵辺義博に親王の暗殺を命じ、7月23日の早朝に御首を刎て、28歳の生涯を閉じるとある。
お墓はこの鎌倉宮の裏山の分かりづらいところにあって、何度も行き来し、やっと見つけた。急な階段を何段も上るような場所で、中には入れなかった。
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でも、この後の話が、全国にはたくさんあって、
実は私が住んでいる相模原市には「わかれ橋」や「縁切り榎」が渕野辺本町にある。
(相模原には淵野辺という地名があり、淵辺義博が統治していてその居館もあったことから付けられたという説もある。)
その淵辺義博は、何と直義の命に叛いて、護良親王を石巻に逃がしたというのだ。その時に妻や子と縁を切った場所がここだというのだ。ほんとかな~
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淵辺義博の館跡が勤め先の近くにあるので、撮ってきた。民家の庭先にある感じで、それにこの辺は坂が多い。近くに堺川沿いを鎌倉街道が通っているので、川までが河岸段丘になっているようである。
また、私たちが歩いている東海道53次にも、護良親王の首を洗ったという「首洗い塚」があったし、
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それこそ、「智方神社」のカムフラージュもあるのである。
首を切った折に食い込んで、刀がなかなか抜けなくて、気持ち悪がって草むらに投げていった。そして、それを拾って弔ったのが、墓近くに「理智光寺址」という碑が立っていたが、そこの坊さんであるという。信ぴょう性はある。
また、草むらに投げ込んだということから生まれた、一緒にこの土牢で生活をしていたとされる南御方(みなみのおんかた・後醍醐天皇の側室を貰い受けたという説もある)が首を持って逃げて、京都のお父様(後醍醐天皇)にお渡ししたいという気持ちも分からぬもない。
昔は伝説を吹聴して、歩いて回る人がいて、俗に、高野聖や願人坊主や修験者などと呼ばれ、話をして人に勧進を乞い、お金をもらっていたとされる。そういう人が作り上げたものかもしれない。
場所は鎌倉市二階堂にある鎌倉宮。
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護良親王は大塔宮(おおとうのみや)とも呼ばれている。1308年に後醍醐天皇の皇子として誕生し、6歳にして比叡山延暦寺に入ったが、後醍醐天皇が倒幕を決意すると還俗して、楠木正成らと挙兵し、吉野山で戦ったとある。その時、足利高氏(この時はまだ尊氏ではない)は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉を攻めて、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇が権力を握った。いわゆる「建武の中興」である。
話は、余談になるが、
4月上旬に行った吉野山で周りを見ながら歩いていると、「大日寺」なるものがあって、この看板には
「1333年、元弘の変の時に、後醍醐天皇の皇子護良親王の身代わりになって忠死した村上父子の菩提寺である」と説明書きがしてあった。
なるほどこの戦いのことであったのかと納得した。
そして、この鎌倉宮には村上義光(よしてる)父子も祀られてあり、その名も「身代わり地蔵」とあった。
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親王はこの「建武の中興」の功により征夷大将軍になるが、足利尊氏との間で対立が深まり、尊氏の奸策により逆賊の濡れ衣を着せられて捉えられ、鎌倉のこの地の土牢にに幽閉されたのである。約9ヶ月の間、閉じ込められていたという。
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そして、1335年7月、北条時行は残党を集めて鎌倉に攻めいり、この辺を統治していた相模守で足利尊氏の弟直義と戦い、この戦いに敗れた直義は逃れる際に、家臣淵辺義博に親王の暗殺を命じ、7月23日の早朝に御首を刎て、28歳の生涯を閉じるとある。
お墓はこの鎌倉宮の裏山の分かりづらいところにあって、何度も行き来し、やっと見つけた。急な階段を何段も上るような場所で、中には入れなかった。
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でも、この後の話が、全国にはたくさんあって、
実は私が住んでいる相模原市には「わかれ橋」や「縁切り榎」が渕野辺本町にある。
(相模原には淵野辺という地名があり、淵辺義博が統治していてその居館もあったことから付けられたという説もある。)
その淵辺義博は、何と直義の命に叛いて、護良親王を石巻に逃がしたというのだ。その時に妻や子と縁を切った場所がここだというのだ。ほんとかな~
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淵辺義博の館跡が勤め先の近くにあるので、撮ってきた。民家の庭先にある感じで、それにこの辺は坂が多い。近くに堺川沿いを鎌倉街道が通っているので、川までが河岸段丘になっているようである。
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また、私たちが歩いている東海道53次にも、護良親王の首を洗ったという「首洗い塚」があったし、
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首を切った折に食い込んで、刀がなかなか抜けなくて、気持ち悪がって草むらに投げていった。そして、それを拾って弔ったのが、墓近くに「理智光寺址」という碑が立っていたが、そこの坊さんであるという。信ぴょう性はある。
また、草むらに投げ込んだということから生まれた、一緒にこの土牢で生活をしていたとされる南御方(みなみのおんかた・後醍醐天皇の側室を貰い受けたという説もある)が首を持って逃げて、京都のお父様(後醍醐天皇)にお渡ししたいという気持ちも分からぬもない。
昔は伝説を吹聴して、歩いて回る人がいて、俗に、高野聖や願人坊主や修験者などと呼ばれ、話をして人に勧進を乞い、お金をもらっていたとされる。そういう人が作り上げたものかもしれない。