wakuwakuな生活

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悲劇のヒーロー 太田道灌の墓は二つある。

2012-10-14 13:52:55 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年10月14日(日)
神奈川県の伊勢原市に太田道灌の墓があると知って、行ってみた。

以前、皇居に行った時に、江戸城を築いたのは太田道灌だということが説明看板に書いてあり、たまたま丁度その頃に読んでいた本が「のぼうの城」で、その舞台である忍城の城主成田氏長の後妻である珠はこの太田道灌の曾孫の三楽斎の娘にあたるとあったので、何か繋がった気がしてこの太田道灌の名前は頭の奥深くに刻まれていた。

太田道灌は、1432年に生まれ1486年に非業の死を遂げた室町時代後期から戦国時代初頭に活躍した武将である。父親の太田資清(すけきよ)の時から扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)に使え、相模守護代を兼務し、事実上相模・武蔵の両国を支配していた。関東管領山内家の内紛を鎮め、その武名を高めた。1478年には今川家の家督問題の調停のために駿河へ出陣して、北条早雲にも出逢っている。また、文化人としても優れていて、将軍足利義政に諮問を受けるほどの和歌が達者であったという。

しかし、あまりにも活躍したことが、主君である上杉定正の反感を招き、上杉顕定の讒言(ざんげん)を聞き入れて、相模糟屋館で謀殺されてしまったということである。

一つの墓は上粕屋の洞昌院というところで、その近くには、暗殺された時に一緒になくなった七人の墓もあった。
   


その奥の広い荒野のところには関東管領上杉家の館があったそうで、今は産業大学が建っているが、もしかしたら、そこで太田道灌は殺られたのかもしれない。
   


もう一つの墓は、下糟屋の大慈寺で、江戸時代に書かれた「風土記」にもその様子が書かれているそうです。
 


その近くにあった丸山城址公園は、鎌倉時代は糟屋左衛門という人の居跡があり、中世時代はまさに太田道灌が活躍していた時代は、相模国守護である上杉氏の城である可能性が非常に高いということである。
        


また、その丸山城の敷地内に「高部屋神社」というのがあった。そこの拝殿は総欅造りで厚い茅葺き屋根、緻密な彫り物には浦島太郎と乙姫様や竜宮城という珍しい図柄が刻まれていた見事なものであった。時代を経て存在する風格を兼ね備えていた神社であった。そこにいた人が、「今日は道灌まつりだ」と教えてくれた。いつもは見られない銅鐘も見られた。平家を祖先に持つ平の某が奉納したらしい。
また、拝殿に掲げてある看板は「山岡鉄舟」が書いたとその年配の人が教えてくれた。
        


同じ人の墓が二つあるのは何だかおかしいが、もしかしたら昔の人は死んでなおかつ恨みを持って生き返らないように分けたのかもしれない。それほど殺したほうが恨まれるような非業な死であったのかもしれない。


コメント (4)
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