wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

埼玉の五十子陣(いかごのじん)と鉢形城跡へ

2016-01-05 12:08:38 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成28年1月4日(月)、暖冬といわれる今年の冬。
沖縄の方では、20度を越す夏日となり、東北の方は、雪が降らずに雨となっているという、そんなお正月。
 
 私は、今年も好きな歴史探索をするぞーとばかり、また、この天気も相まって、埼玉の方へ繰り出した。

 圏央道が開通し、私の家から、ほんの15分足らずで、「相模原愛川インター」へ行ける。スマホで検索したら、埼玉県の本庄市(五十子陣がある)に、1時間33分で行けるとある。埼玉がこんな近くになったんだな~と感じながら、ぜひ、昨年話を聞いた「戦国さがみ いろいろ城物語」で、興味を持った、五十子陣や鉢形城跡に行ってみたくなって、主人を拝み倒して、車で連れて行ってもらう。

 果たして、「五十子陣跡」は全く確認できなかった。偶然にも、車をとめた、閉店したお店のところに、「桑茂る 五十子合戦 古戦場」という地元の人たちが作ったとされる「ほんじょう かるた」があって、かろうじて、この辺がそうなんだな~確認できた。この辺りは、桑畑が広がっていたんだ~。蚕でも飼っていたのかしら?平地が広がっていた。

この地で、利根川を挟んで、古河公方と山内上杉氏が対立して、戦場になったのだ。
何しろ、だだっ広い平地だ。ここなら合戦ができるだろうなと感じながら、車を走らせて、「岡部道の駅」で昼食を食べる。
 
そこは、中山道の「本庄宿」で、皇女和宮が、泊まった本陣宿があると、看板が出ていた。
      


車で走らせること30分の所に、鉢形城跡(寄居町という所)があるという。
長尾景春が築城し、北条氏康の四男氏邦が整えた。壮大である。ド肝を抜かした。
氏邦は、秀吉の小田原攻めの際、この鉢形城で籠城し、負けた。だが、前田利家の嘆願により一命は許され、加賀金沢(今の七尾)で、一千石の知行を得たという。へえ~。人望があったのだろう。
建物はなく、曲輪が残っている。
外曲輪、三曲輪、二曲輪、本曲輪と、神社も備わっていて、家臣が諏訪神社から分拝したらしい。この神社を氏邦も参拝したかと思うと、感慨ひとしおである。
本曲輪のところには、何やら老人施設の建物があって、ブログのような、本丸跡は確認できなかった。
また、休憩所のところに、家紋が掲示してあって、姫路城で見た池田氏と同じ蝶の家紋が、大道寺氏の家紋と掲示されていたのに驚いた。池田氏の中でも家紋はいろいろあるらしい。
                
コメント
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