平成28年11月19日(土)小雨降る寒い日、大野北公民館主催の「歴史講座」へ行ってきた。
私が歴史好きということを知っている友人が教えてきてくれたもので、1時間半がとっても短く感じられるほど、面白い内容だった。Nさん、ありがとう。
「大坂の陣と真田信繁」という題目で、NHK大河ドラマ時代考証・歴史学者の平山優さんが話してくれた。
大河ドラマ「真田丸」の撮影が終わり、10月下旬に打ち上げがあり、白金で、ほぼ全員参加で、朝まで飲んでいたという話から始まり、九度山に行った経緯から、九度山での暮らし、大阪冬の陣が起こったいきさつ、冬の陣、夏の陣と、1時間半ずっと話してくださった。
逸話的に頭に残ったことは、
・第2次上田合戦の秀忠は初陣 だった。海千山千の昌幸との格の違いを感じる。
・上田城は、夏の観光人数が 90万人を超え、100万人に到達しそうだということ。
ぜひ足を運んでくれとのこと。
・上田城は、徳川方に壊されて、何一つ真田のものは残っていない。信之が統治するときには、本 丸は畑になっていたと資料に残っていたとか。
・昌幸が第2次上田合戦で 勝利したのは、砥石山城を信之が攻め、上田城に逃げ込んだと見せかけて、虚空蔵 山(こくぞうやま)(かいこ山)から徳川の背後を狙って攻めたからだとか。
・昌幸は、はじめの方では、すぐに戻れると思っていた。家康はそんな気持ちはさらさ らない。手紙が40通残っているが、その内容は、早く戻せ、戻りたい、金がない、 金よこせの4種類だそうだ。
・何で九度山というかは、麓に空海の母が 住む寺があり、そこに空海が9度会いに来たことからだという。
・秀吉を弔う大仏殿を築こうとした秀頼が、方広寺の鐘に「国家安康」の文字を入れたことに腹を立てたこと が合戦のきっかけと言われているが、怒ったのは当たり前のことで、目前で人の名前 を呼ぶことは失礼なことで、諱(忌名)(いみな)ということもあり、極めて慎重に 扱わなければいけないことであったとか。
・片桐且元は、徳川とのパ イプ役であった。秀頼は、内通していると疑い、排斥させる。それは徳川との断絶 を意味することになる。おぼっちゃまの秀頼にはそこまで読めなかったか。
・赤揃えの鎧を着ている徳川方の武将井伊直孝をみて、幸村に「佐和山の物語も見たい ものだな」と言わしめていた。三谷幸喜のエール交換なのか。
・心眼寺、三光神社と真田丸近 くの仏閣。
・大阪は奈良時代は海で、半島が出ていて、そこに天王寺があった。
・前田の殿様も初陣で、挑発に乗り出陣してしまった。
・冬の陣の和睦は、徳川方は兵糧の限界、豊臣方は火薬が底についたから。
・堀を埋めたのは、双方の合意で、浪人対策で堀を埋めた。秀頼は、一時金を出して、浪人たちを国へ帰 らせたかったが、その金で、武器を買ったり、はたまた、堀を掘り返したりする輩 が出たりと、不審な動きが重なり、また大阪へ浪人たちが集まってきてしまい、夏 の陣へと向かってしまう。
・夏の陣では、家康は、若い二人の息子に、合戦を見学させるために、昼頃からの始め させようとした。本来は朝5時~6時頃には始めるものを。それでしびれを切らした
合戦が始まるも、双方経験がないものだから、突撃されて、味方の陣地に逃げ込み、 臆病風が伝染した。2度も攻められ、馬印も破かれ、絶望のあまり腹を切ろうとした 家康、あと一度突入したら首が取れたであろうとこまでいったが、そこで2つのこと が起こった。大野治長が今がチャンスと秀頼を呼びに千成瓢箪(せんなりひょうたん)を抱え て大阪城に戻ったのを、戦場から逃げて帰ってきたと思われたこと。もう一つは、 大阪城から火の手が上がったこと。誰が裏切り者なのかは、大河を見てくれとのこ と。
・秀頼は出陣しようとはしていたが、やはり経験がないので、どこで出陣していいか判 断ができなかった。
・幸村の首 を取った武将は、身なりの良い武将とやり合わせをして、誰だか分からず に、もぎくび(兜ごと取ること)にしたそうだ。陣地に持ち帰り、真田に使えた武将 から教えられ、たまげたそうだ。何とその人は、武田の遺臣でもあり、因縁を感じ た。
・千姫を送って、助命したが、 かなわず。
・秀吉恩顧の武将たち、福島正則、黒田長政らは、江戸に幽閉されていたと言ってい た。へえー、そうなんだ。
あと少し 夢が叶った 赤椿
私が歴史好きということを知っている友人が教えてきてくれたもので、1時間半がとっても短く感じられるほど、面白い内容だった。Nさん、ありがとう。
「大坂の陣と真田信繁」という題目で、NHK大河ドラマ時代考証・歴史学者の平山優さんが話してくれた。
大河ドラマ「真田丸」の撮影が終わり、10月下旬に打ち上げがあり、白金で、ほぼ全員参加で、朝まで飲んでいたという話から始まり、九度山に行った経緯から、九度山での暮らし、大阪冬の陣が起こったいきさつ、冬の陣、夏の陣と、1時間半ずっと話してくださった。







逸話的に頭に残ったことは、
・第2次上田合戦の秀忠は初陣 だった。海千山千の昌幸との格の違いを感じる。
・上田城は、夏の観光人数が 90万人を超え、100万人に到達しそうだということ。
ぜひ足を運んでくれとのこと。
・上田城は、徳川方に壊されて、何一つ真田のものは残っていない。信之が統治するときには、本 丸は畑になっていたと資料に残っていたとか。
・昌幸が第2次上田合戦で 勝利したのは、砥石山城を信之が攻め、上田城に逃げ込んだと見せかけて、虚空蔵 山(こくぞうやま)(かいこ山)から徳川の背後を狙って攻めたからだとか。
・昌幸は、はじめの方では、すぐに戻れると思っていた。家康はそんな気持ちはさらさ らない。手紙が40通残っているが、その内容は、早く戻せ、戻りたい、金がない、 金よこせの4種類だそうだ。
・何で九度山というかは、麓に空海の母が 住む寺があり、そこに空海が9度会いに来たことからだという。
・秀吉を弔う大仏殿を築こうとした秀頼が、方広寺の鐘に「国家安康」の文字を入れたことに腹を立てたこと が合戦のきっかけと言われているが、怒ったのは当たり前のことで、目前で人の名前 を呼ぶことは失礼なことで、諱(忌名)(いみな)ということもあり、極めて慎重に 扱わなければいけないことであったとか。
・片桐且元は、徳川とのパ イプ役であった。秀頼は、内通していると疑い、排斥させる。それは徳川との断絶 を意味することになる。おぼっちゃまの秀頼にはそこまで読めなかったか。
・赤揃えの鎧を着ている徳川方の武将井伊直孝をみて、幸村に「佐和山の物語も見たい ものだな」と言わしめていた。三谷幸喜のエール交換なのか。
・心眼寺、三光神社と真田丸近 くの仏閣。
・大阪は奈良時代は海で、半島が出ていて、そこに天王寺があった。
・前田の殿様も初陣で、挑発に乗り出陣してしまった。
・冬の陣の和睦は、徳川方は兵糧の限界、豊臣方は火薬が底についたから。
・堀を埋めたのは、双方の合意で、浪人対策で堀を埋めた。秀頼は、一時金を出して、浪人たちを国へ帰 らせたかったが、その金で、武器を買ったり、はたまた、堀を掘り返したりする輩 が出たりと、不審な動きが重なり、また大阪へ浪人たちが集まってきてしまい、夏 の陣へと向かってしまう。
・夏の陣では、家康は、若い二人の息子に、合戦を見学させるために、昼頃からの始め させようとした。本来は朝5時~6時頃には始めるものを。それでしびれを切らした
合戦が始まるも、双方経験がないものだから、突撃されて、味方の陣地に逃げ込み、 臆病風が伝染した。2度も攻められ、馬印も破かれ、絶望のあまり腹を切ろうとした 家康、あと一度突入したら首が取れたであろうとこまでいったが、そこで2つのこと が起こった。大野治長が今がチャンスと秀頼を呼びに千成瓢箪(せんなりひょうたん)を抱え て大阪城に戻ったのを、戦場から逃げて帰ってきたと思われたこと。もう一つは、 大阪城から火の手が上がったこと。誰が裏切り者なのかは、大河を見てくれとのこ と。
・秀頼は出陣しようとはしていたが、やはり経験がないので、どこで出陣していいか判 断ができなかった。
・幸村の首 を取った武将は、身なりの良い武将とやり合わせをして、誰だか分からず に、もぎくび(兜ごと取ること)にしたそうだ。陣地に持ち帰り、真田に使えた武将 から教えられ、たまげたそうだ。何とその人は、武田の遺臣でもあり、因縁を感じ た。
・千姫を送って、助命したが、 かなわず。
・秀吉恩顧の武将たち、福島正則、黒田長政らは、江戸に幽閉されていたと言ってい た。へえー、そうなんだ。
あと少し 夢が叶った 赤椿