wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

義母の生まれた長野・北相木村

2017-08-12 14:30:05 | 旅行記
平成29年8月8、9、10日(火・水・木)に、義母の生まれ故郷の長野県北相木村へ行ってきた。

というのも、その一週間位前から、義母が「私は人が体験しないような人生を歩んできた。子や孫に残して伝えていきたい」という言葉を受け、満州に家族で入植したこと、終戦後に引き揚げてきたこと、その帰路、父や兄を亡くしたこと、日本に戻ってきて、姉弟5人で北海道へ開拓へ行ったこと等々、義母の話を私がパソコンで打って活字にしていた。その中で、義母の生まれ故郷の地名や様子を、実際に見ていたほうが、書いたものをまとめやすいかなと思い、今回、夏休みを利用して、義母と主人と行ってきた。

また、近くの八千穂村には、30年前に、義父がプレハブ小屋を建てており、子供が小さいときには、利用していたし、義父母はキノコ採りや山菜取りによく行って、しばらく泊まりもしていた。義父がなくなり、その隣には、義姉夫婦が、別荘を建てたりして、今は全く使わなくなっている。その処分も気になっていることもあり、義姉の別荘に泊まれる気軽さもあり、行ってきた。
  

考えると、義父は60歳の時に、この小屋を建てた。屋根にペンキを塗ったり、補強を加えたりして、形的には、まだしっかりしている。立派なもんだなと感心する。

では、8日から、書いていこう。

朝の9時頃、家を出る。杖を忘れたと、取りに戻る。夜になって、薬も忘れていたことに気づいた。
まずは、中央道の長坂で下り、小海方面へ、八ヶ岳高原大橋からみた富士山がきれいだった。
   

次に、昭五伯父さんの墓へ行くため、小海に花を買いに行く。
  

途中、昔、魚釣りをした、黒沢組の前の川を見た。
  


いよいよ義母が生まれ、満州に行くまで、12歳位まで生活した、川俣へ、もう、見事、面影は何も残っていなくて、製版所の代わりに、車の整備工場があって、その建物の上あたりで生活をしていたと言っていた。
道沿いの奥には、戦いに行く人を見送った像が立ててあった。
      

そのまま、もっと奥に入って、南相木村役場方面の和田というところに、昭五伯父さんの墓がある。
  

菊原家の墓の真ん中にどんと墓石があり、その周りに、3,4家族の墓碑が立っていて、亡くなった方々が刻まれている。

夜には、義母の旧姓が「菊原」で、この苗字の由来を主人から聞く。
「後醍醐天皇が、隠岐に流されたときに、身の回りの世話をやり、その功績に、特別に菊原の姓を賜ったとか。」

次に、義母が世話になった、「おばやん」(義母の父の末の妹さん)の墓を訪ねる。栗生(くりゅう)というところだ。
  


途中、「山中鹿之助」の看板が目に留まった。どうも鹿之助のおじいさんが、相木城を作った人らしい。こんなところで、有名な名前を見て驚いた。
  


そこには、「おばやん」の息子さん、義母のいとこのひろゆき伯父さんが住んでいる。80歳とは思えないくらい、元気で、頭もしっかりしている。義母が、昔の知り合いの人たちの行方や現在の様子を聞くと、すぐさま答えが返ってくる。13世帯18人が住んでいて、選挙の投票時は、全員が投票しても、終了時間まで、投票所は開けていなくてはいけない、私は1万円もらっても嫌だねとか言っていた。なかなか面白いことを言う。
また、この栗生のおじさんが住んでいる家は、築80年は経っていて、義母が10歳くらいの時に、一番末の弟の佳六おじさんを負ぶって、初めて「おばやん」に連れられて、泊まった家でもある。
主人も小さいころには、よく遊びに行っていて、写真で見たことがある景色があった。
      

一通り、用は済んだので、2日目は、白駒池へ行き、それから温泉に入ろうと出かける。
八千穂の小屋から、八千穂スキー場を通り、白駒池へ。吉永小百合がコマーシャルしてから、ずいぶん観光化したらしい。入る時は空いていたが、出るときには、車が列になって、駐車を待っていた。
             

次の日には、雨が降って、山の上は、寒いくらいだという。丁度いい時に帰ってきた。
義母の生まれ育ったところを見ることができたり、従兄さんたちにお会いでき、また、昭五伯父さんや「おばやん」さんのお墓参りにも行くことができて、良かった。義母の生い立ちの参考にしていきたい。
コメント (2)
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