「すまぬ……あいすまぬ。誰か…おられぬのか」
政勝は屋敷の門を叩きながら大きな声で、家人を尋ねてみた。
程なく玄関の戸を開ける音がして、ひたひたと土を踏む音が近づいてくると政勝はほっと安堵した。
「すまぬ……道に迷うてしもうた。軒先なりと…一夜の宿をかりうけたい」
頼みこむ政勝の耳に
「お待ち下さい。今、閂をあけます」
女の声がきこえた。
夜であると言うのに、女が独りで相手の素性を確かめ様ともせず閂を開けるという。
なんという無用心な事だと思いながらも、政勝はただ、ただ宿を乞いたい一心が先だった。
「すまぬ。道に迷ったのだ。怪しい者ではない。できるならことなら一夜の宿を頼めぬか」
扉越しに政勝が言う内に、かちゃりと音がして扉が開いた。
扉を開けた女が顔を覗かせると
「どうぞ」
承諾と共に、女が政勝を屋敷内に招じ入れると再び閂をしめた。
「あいすまぬ……当家の主に…」
じかにことわりと礼を言わねばなるまいと思った政勝がそこまで言わぬ内に、女の方が
「かまいませぬ.。姫ぃさまにいわれてまいりました。さ、どうぞ」
女に案内されるまま政勝は屋敷に入って行った。
政勝が足駄を脱ぐと女はそのまま
「こちらでございます」
言いながら長い廊下を向こうに政勝を促がした。
女の後を歩きながら再び政勝は
「当家の主殿に一言お願いと御礼を申し述べなくては」
某の気もすまぬ……と言いかけるが女は静かに廊下を歩いて行く。
どうやら政勝の言葉を聞いている素振りではない。
政勝の言葉が途切れてしまうと、女が
「夜もおそうございます。今日はごゆるりとおやすみくださいませ」
たちどまった。
その立ち止まった所の部屋の襖をあけて
「こちらへ……どうぞ……」
女がいう。
部屋の中にはすでに政勝が来るのを待っていたかのよう夜具が敷かれてあった。
枕元には着替えの夜着がおいてさえある。
『他の者が先にしいていたおいたのだな?』
姫ぃさまと呼ばれた家の主は政勝を屋敷の中に招じ入れてやることを女に言いつけると同時に他のはした女に夜具を整えさせたのであろう。
『きはしのきく方のようだな……』
礼を言うのは当然の事ながら政勝は姫ぃさまと呼ばれる女主を一目みたくなってもいた。
政勝が部屋に通されて細やかな気配りに保然としている間に政勝を案内して来た女は部屋の襖を閉めて出ていってしまった事に
政勝が気が着いたのは、しばらくしてからだった。
湿った着物を用意されている夜着に有難く着替えさせて貰おうとして
「かたじけない…夜着まで……」
女をふりむいたがそこに女はいなかった。
政勝が着替え終えて、湿った着物を手にしたままどうしたものかと鴨居をみつめていると、廊下越しから女の声がした。
「はいります……」
女は盆の上に湯気の立つ菜粥をもってきていた。それを窓辺に寄せてある小さな文机の上におくと
「こんなものしかございませぬが……御着物をこちらにおわたしくだされませ」
政勝が着物をわたすと女は
「寝間で……もうしわけございませぬが……どうぞお食べください」
部屋を出て行くとしばらくして着物をかける竹衣文をもってき政勝の着物をつるしてくれた。
しっかり腹の減っている政勝が女がもう一度来た時には椀の物をすっかり食べ終わっていたことはいうまでもない。
「なにから…なにまで…かたじけない……」
空になった椀を女は盆に乗せ
「おやすみなさいませ……」
と、だけ言うと部屋を出て行った。
明けやらぬ、薄闇の中を人が歩き廻る気配が聞こえてくる。
蚊遣りの向こうから、漏れて来る月明かりが細って見える。
朝は近い。
が、まだ早すぎる時刻である。
『何事?』
政勝は床に起き上がると薄闇の中で目を凝らした。
枕もとに置いた刀の所在を確かめると政勝はもう一度床に潜り込んだまま、うとうととまどろみながら朝が明けるのを待つことにした。
まだ空気が動き出さない朝の内に出立した方が良い。
そう、決め床の中にじっとしている政勝の耳には、かすかな人の動き回る気配が聞こえ続けていた。
外が白んできたのを感じると政勝は起き出し、自分の着物に着替え外にでることにした。
日の差してくる方向を見定めたかったのである。
昨日とは逆に廊下をたどり外に出ても、誰とも会わなかった。
夜のざわついた人の動きが鎮まりかえって奇妙なほどの静寂が漂っていた。
あれほど政勝に気を配った女に、無断で外に出た事が、政勝の心を咎めさせてもいた。
が、まずは自分の所在がどの辺りにあるのか。
この先どちらへ向かえばよいものか。ここはどこになるのか?
政勝はぐるりと辺りを見渡した。
「おや?」
向こうの屋敷の外れから人が歩んでくるのが見えた。
昨日の女かと思ったが、違う。
顔立ちも違えば、年恰好も違いすぎていた。凛とした顔である。格好も作務衣をまとっている。
男かと思ったが、肩の丸みや項の細さが女であることを語っていた。
女は政勝の目の前までゆくりと歩いて来たが、政勝を気にも止めようとせず、見ようともせず、まっすぐ前を向いて政勝の前を通り過ぎていった。
女が政勝を見ようともしない様子に政勝の方が虚を突かれ、呆然と女の姿を見送るだけになってしまった。
どこに行くのだろうか?
あれがこの屋の女主、姫ぃ様であるのだろうか?
主の通した客に頭ひとつ、下げずに通り過ぎてゆくからにはその女こそが主であるゆえと考えるしかなかった。
だとするなら一言礼を述べねばなるまいと思うと政勝は女の跡を追いかけ始めた。
前を歩く女は、小さな手桶を抱え込み歩んでいる。
近寄りがたい空気を感じ取りながらも政勝は、声をかけようとした。
その時。女が朝露に滑ったぬかるみに足を取られ転びそうになった。
「あ」
と、思ったが女はことのほか身が軽かった。
平衡を失ったものの転びはしなかった。が、女の抱え込んでいた手桶の中身がこぼれた。
「え?」
政勝が息を飲むのも無理はない。
桶から零れた物が女の手に飛び散り、どろりとした血が女のたっつけを伝わり作務衣の足元にまとわりついた。
「!」
血である。生臭い血の匂いがかすかに動き出した空気に乗って政勝の鼻に届いた。
血のこぼれた辺りに立ち止まると、政勝は地面をくいいるように見た。
「まちがいない・・・血だ」
が、女は一向に気にならないのであろう。
先へ先へと歩んで行くのである。
「な、なんなんだ?」
立ち止まって考えてみたとて判るわけはない。
女を見るとはるか向こうの竹林の中に入り込んでゆく。
怖気がしないでもない。
が、政勝は女の跡を追うことにした。
「居た・・・」
よってくる政勝をものともせず、気にもとめず相変わらず見ようとさえしない。
女は小さく掘られた穴の中に桶の中身をあけた。
赤黒い塊がどさりと音を立てて穴の中に落ち込んでゆくのが聞こえるほどに政勝は女の近くに来ていた。
桶から滴り落ちる血が途切れると女は手桶をかざし返して地べたに置き、穴に土をかけると政勝の方に向き直った。
女の目が確かに政勝を捕らえていた。
だが、顔色ひとつ変えずまるで政勝をそこに生えている竹の一本のようにしか思わないという素振りでそのまま元来た道を歩んでいった。
竹林の中に、立ち尽くしたままの政勝に沸いてくるぞっとする想いが細かな身震いを起こさせていた。
「な、なんなんだ」
とにかく、ここを早く出たほうが良い。
そう考え付くと政勝は屋敷の方にもどり始める為に向きを変えた。
その時、その場所のかすかな残り香に気が付いた。
―伽羅の香―
女の物であるのは間違いがない。
何者か判らぬが、女であることだけは間違いないと政勝は思った。
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