慌てふためき竹林を後にして政勝が屋敷に戻ってみると昨日の女が政勝を待っていた。
「朝餉ができております」
政勝に言うと女は歩き出した。
早く出立したほうが良いと思いつつも政勝は戸惑った。
突然夜中に押しかけた見も知らぬ者を親切に世話をしてくれて、今もまたもこうやって朝飯まで用意してくれているのである。
それであるのに、礼の一つも述べずに出てゆくのは流石に政勝も人理におつる気がするのである。
「かたじけない」
女の跡を歩くようについてゆくと昨日とは違う部屋に通され、質素な膳が置かれ味噌汁の香りが湯気だち政勝の食欲をそそり始めていた。
政勝が箸を取ると女は、
「粗末なものしか御座いませんが:どうぞ、御代わりも遠慮なさらずに」
口をつぐんで傍に座り政勝への給仕を待つようであった。
一口汁をすすると政勝は尋ねる言葉を舌の先にとどめて迷っていた。
『一体、なんであるのか?』
今しがた探るように女主を見た己の行状にも恥じ入る物がある。
が、なんだったのか?
自分の見たものが何だったのか?
妖怪狐狸などの類のわけもあるまいが、釈然とせぬまま怖気を奮っている自分では、これも失礼きわまる胡乱な見方でしかない。
「先程当家の主人らしき方にあったのだが・・」
政勝はやっと口を開いた。
「ぁ、ああ。姫い様に?」
女はふっと考えていたようだが
「それでは、竹林に行く所をご覧になったのですね?」
政勝がいた場所と女主の行動を考え合わせていたようである。
「あ。ああ。それで」
政勝が言葉を繋ごうとする前に女が微かに笑った。
「それは、さぞおどろきになったことでしょう」
政勝が目撃した物も政勝がそれに驚愕の念を抱いているのも女にはわかっていた。
「あ?いや、まあ」
何ぞわけがあるのである。それを女も判っている。
「あれは、えな、です」
女は説明した。
「え・・な?」
「殿方が見るべきものではございませんでしょう・・
子をはらみ子を産み終えた後、腹の中で赤子を包んでいたものが体外に出てまいります」
「あ・・」
「聞いたことがございますか?」
「いや」
「それでは尚の事、驚かれた事でございましょう」
確かに事実がわかれば何の事はないのであるが、しかしまた、何故そのような物を扱う事をしているのかが、判然としない政勝なのである。
「姫い様は産婆のような事を生業にしております」
「え?」
若い娘がである。不思議なことである。
「理由あって姫い様は婚姻を許されぬ沙汰をうけております。姫い様は本来はお子がほしい。
なれど、叶わぬことゆえ、仲間の産を助ける事でお心をまぎらわしておるのでしょう。えなひとつとてもそうなのです。
今まで赤子を守ってきていた物ゆえと御自らの手で埋めてやりたいと・・。貴方はそれをごらんになったのでしょう?」
すると昨日の夜半からの人のさざめきも、どこか屋敷の中の一角で産を成す者がいた故であったのかと政勝は遅ればせながら得心させられていた。
「仲間といわれたが?」
姫に所縁のもの全てが、ここに囚われているという事なのであろうか?
由縁の者は子を孕む事をゆるされている?
その世話をしてやるしかない姫なのだ。と、思うと、ますます酷い仕置きに思える。
「いえ。いえ。女同士ということでございますよ」
女は己の失言と政勝に気取られないように、やんわりと言い添えた。
「近在の者がここにやってくるんですよ」
「生まれようというに、山をのぼってか?」
「いえ。もう、直ぐとならば、早めにおあずかりして::あのように::」
女の言うところはくどの奥である。
奥には二、三、女がいて、かなり大仰な鍋で朝餉をしつらえている。
産を成すまでここで寝起きする女が他に何人かいるということであろう。
「冷めますよ」
女が政勝の食事を促すと押し黙ってしまった。
慌てて汁をすすりながら政勝は考えていた。
何故婚姻を許されぬ沙汰を受けこの山の中にひっそりと暮らすのか判らぬが、そんな沙汰を与えた木之本城主の差配が腑に落ちぬのである。
若い娘の未来さえも取り潰しておきながら、生かしておけるなら、何も・・・。
「姫い様は、どんなにか、お子が欲しいやら」
黙りこくっていた女がふっと言葉を漏らすと袖で頬を押えた。
「・・・・」
女子の幸せという物が子だけであろうとは思えないが、子を望むほどに嘱望されるよき伴侶にさえ巡り合う事を赦されない女主の顔が、
あの手桶をあけた時のむくろのような冷たい無表情の顔が政勝の中に浮かび上がってきていた。
「すみませぬ。見ず知らずの方に・・」
女は拭った袖をひらとはためかせると政勝に手を差し出した。
「あ。すまぬ」
椀がからになったのを見届けた女が政勝に給仕を継ぐと政勝に微笑んだ。
はじめて見せた女の笑顔は政勝にいくばくか心を開いたように思えた。
「お急ぎの御用でございましょう?」
「ああ。そうではあるが・・」
礼の一つを述べねばならぬと思っている政勝の胸のうちを推量したのであろう。
「姫い様は、夜中からの産褥のあとで、泥のようにくたびれておりますゆえに、もう、ふせこんでしまわれておりましょう。
私から伝えおきますにどうぞ、急ぎ出立なされてくださりませ」
「あ。いや。それでは」
政勝の躊躇いに女はふっと考え込んで見せた。
「それでは、もし御用時を終えて、暇(いとま)があるようでしたら、もう一度ここへ立ち寄って下さいますか?
姫い様は外に出た事もなくここで暮らしております。貴方の故郷の珍しい話一つでも姫い様にきかせてやってくだされませぬか?」
それは持って礼に代えさせてもらえるなら政勝にとってもお安い御用という事になる。
政勝の心が定まると、政勝は懐の中の書状をゆくりとなであげた。
予定の定刻を無駄にすごしてしまっていたが、用事を済ませれば急ぐ旅ではない。事実、物見遊山という表向きでもある。
せいて帰ってあざとく人の口の端(は)にのぼり間者の耳に入ってもおもしろくないことである。
とにかくは書状を届ける。これを済ませるのみである。
食事を終えると政勝は立ち上がった。
「では、お言葉に甘えてまいります」
軽く会釈をする政勝に女がつげた。
「ここをでて、右手に屋敷を曲がれば小道がみえます。それをたどれば小半時もせぬうちに町外れにでましよう」
「ありがとうございます」
深く頭を下げると政勝は足駄をはんだ。
暗くくぐもった屋敷の中を出ると明るい日差しが政勝を包んだ。
女のいわれたとおりに屋敷の右を曲がり歩いてゆくと、熊笹の生い茂った中に続く小さな小道が見えた。
わずかに傾斜した斜面をあがってゆく小道であれば政勝も教えられていなければその道を歩もうとは思わなかったことであろう。
「もう一山こえなばならぬということか」
道の傾斜は緩やかに競りあがり政勝の予測したとおり小さな山を上り詰めていた。
「お?」
眼下に広がってゆく光景に政勝は息を飲んだ。
湖北のまなじりはそこが湖の端と教えている。
眼下はるかに琵琶の海が銀色にまばゆいていた。
その湖に守られるかのように岸辺には小さな家々が見える。
木之本の関を越えれば
「木之本だ」
政勝は下り始めた道を一気に駆け下りるかのように足を速めていった。
主膳の書状を渡す。この用件を勤め終えると、昼過ぎには政勝は城を出た。
これで、一安心。
三つ子でもあるまいに、道に迷うたなど、くちがさけてもいえぬことであるが、
それでも、とにもかくにも肩の荷は下りた。
このまま、元通り琵琶街道に出て、長浜に下った方が良いだろうとは思った。
家にはもろうたばかりの嫁が居る。
早く、帰ってかのとを安心させてやりたいとも、思った。
だが、
『よく、解らぬ』
昨日の屋敷の女主はここの城主によって婚姻を禁じられているということである。
何故の沙汰なのかは判らないが、城主に対面してみれば凡そ、激を飛ばすような男には見えない。
女子の幸せを平気で握りつぶすような男の顔には程遠い。
だが、事実は事実。確かにあの城主が裁断をくだしているということであろう。
『どうにも解せぬ』
何ゆえ。これが判らぬ以上いくら考えてみても同じ事である。
山の中にひっそりと暮らし、己の叶わぬ夢を晴らすかのように産婆の生業にいそしむ事だけが女主の生きる術。
これが現実である。
涙ぐんだお女中の言葉を政勝はかみ締めていた。
ここをでた事さえない。
外の珍しい話を聞かせてやってください。
取るに足らない。あるいは当たり前に過ぎない季節の移ろいの景色栄えさえ、女主の心には珍しく、嬉しい話になるのだ。
『礼もいうておらぬし・・の』
迷うは今回のたびに付き物のようである。
『急ぐたびではない・・・』
かのと。もう少し遅くなるぞ。
やってきたばかりの初々しい嫁が恋しくもあったが、政勝は山への道を選んだ。
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