行けども、行けども、葦原の中である。
きちきちきち、という音とともに政勝の足元から精霊飛蝗が軽やかな薄い羽を広げ飛んで行く。
蟷螂が降りたった辺りにはただ、ひりひりと蟋蟀の鳴く声がする。
日は西にかたぶき始めているが、まだ見上げる頭上の空は鰯雲を並べながら、深く抜けるような青空を残している。
その陽光もやがて朱色に染まれば秋の日のつるべおとしさながら、あっという間に辺りが夕間暮れにまぐれてゆくであろう。
「おかしい……」
小谷城を出て、裾野を見渡した時にその葦原の向こうに道があるのがみえたのである。
ならば、その葦原を突っ切った方が早道である。
かたぶく日を追うように歩けばよい。
それだけをはっきり確かめると政勝は葦原の中に足を踏み入れた。
手を切らぬように葦を掻き分けては、進んで行く政勝に押しやられた葦がもたげなおしてくるとへちゃと顔に滑った感触を残した。
そっと、頬をなで葦を見やると産み落としたばかりの蟷螂の卵があった。
それが頬をなで上げたのだと解ると政勝はしばらくその場にたたずんだ。
みまわす周りは葦原。
いや、もう、もはや葦原のど真ん中に立ちておればそれがどこまで続くのかさえ判らない。
ぱさぱさと蟷螂が飛び立つのがみえた。
良く、見ればあちこちに蟷螂の姿があり、そちこちの葦に卵がうみつけられていた。
夏も終り、蝉の声も聞こえなくなっている。
『こんなに早く、卵を産み付けるかの?冬がくるのが早いか?今年の冬は厳しいやもしれぬ』
そんなことを思いながら政勝は空を仰いだ。
まだ、空は青くはある。
日のある内に早く木之本の須磨道守の所へつきたいのである。
が、やっと、小谷城を、下って来た所である。
まだ木之本まで五里はある。政勝は主膳の命を受けて北近江の木之本まで行こうとしている。
小谷城主に同じ手紙を渡すと残るは木之本に行くだけであるのに、小谷城をあとにしてからの道のりがさっぱり判らなくなってしまっていた。
小谷城は伊吹山と、近江の琵琶湖のほとりの木之本を結ぶ南西に延びる線の間中にある小さな山城である。
政勝は懐に包んだ手紙を確かめる様にぐうと、おすと先を急いだ。
道を聞こうにも、誰とも、ゆきあたらないのである。
心もとない思いをしながら政勝は木之本がここから西にある事だけを頼りに先を歩んできたのである。
照り返した夕日が葦に陰をつくる。その日と同じの方を目指してなおも、政勝は歩んだ。
「おっ」
突然、葦原が開けた。だが、山の上から見た場所ではない。
『迷ったか?』
嫌な予感である。
政勝は東の空を見あげた。山の端に白く冴えた寒天の押し菓子のような月が見える。それを見ると、政勝は多少ほっとした。
闇にまぎれても方向は月を頼りにできる。
満月に近い月であらば、足元もなんとか、見えよう。
迷う事を覚悟したかのように考えを廻らすと政勝はその広い野原を歩んで行った。
足元が緩やかに斜面を描き競りあがっているのである。
が、先にある黒い森が政勝の目をくらましている事に気がつかなかった。
「鎮守の森であろう」
簡単に政勝は考えていた。
さすれば、もう、人家もあろう。
どうやらこれでは、何処かに宿を頼むしかないだろう。
政勝の予定では今頃はせめても琵琶湖のほとりの近江街道に出ているはずだった。
今頃は琵琶街道を北に登り、木之本の関にたどり着いているはずであった。
が、やむをえない。
「西日が落ちる前までにはなんとか、畳の上で眠れる場所に辿りつこうぞ」
そう決めると政勝は、又、西を目指し歩んでいった。
一刻がすぎたであろうか。
山の中をしゃにむに歩く政勝の姿があった。
辺りは、とうに夕まぐれにまぐれてとっくに闇の中であった。
「くそおおお…迷ったか……」
とっくに迷っているのであるが、諦めてしまわぬ限りは迷っているのではない。
政勝らしい負け惜しみであるが詰まる所、迷っているのには、かわりがないのである。
昼間の温かさと夜間の冷え込みの差が辺り一帯に緩やかな霧を生じさせる。
政勝の着物も、露を玉に結んだ葉ずれに触れて、そこかしこに沁みてき始めていた。
これ以上歩き回らぬ方が良い。
そう判断するともう一度油紙に包み込んだ懐の書状を確かめて政勝は仮眠を取れる場所を探し始めた。
枝振りの良い大きな木の下なら、地面も濡れておらず振りくる霧を枝葉が受けてくれる。
目前を月明かりで、すかす様に見てみれば、目下に大きな枝振りが見える。
どうやら山の斜面はなだらかにくだりその下にくぼ地がある。
その中にひともと、立てる木の枝の高さが目の前にあるらしい。
その木を目指して政勝は斜面を降り進んだ。
「?」
目の前がいきなり開けると、そこは平たく和んだ場所である。
「かむろい?」
神がおりたち、遊び戯れる場所として聖地を切り開くことがある。
ならば、ここまで人が入ってきている事は確かである。
かすかな安堵が胸をよぎると、政勝は目指す木の下まで歩んでいった。
大木の幹に背をつけて政勝はへたりこんだ。そして、辺りをみわたした。
もやが浮かびあがり、月の明かりが薄っすらと辺り一面を鈍く照らし出している。
降り下ってきた反対のほうに目をやるとまだまだ山が続くのであろう、黒く暗い山の稜線が漆黒の様に重なって見える。
その稜線に入る手前に大きな暗い塊がかすかな葉ずれを重ねているのがみてとれる。
薄明るい月がその固まりの足の中に光をおとしている。
その様子でその塊が竹の林である事を判らせた。
「おっ?」
ふと…灯りを目にした気がする。
よもやという思いと妙なという思いが交錯する。政勝はいっそう目をこらした。
「ある…」
竹の林の奥に人のすむ屋敷がある。
政勝は落した腰を浮かび上がらせるとその屋敷に向かって歩んで行った。
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