どこかのスレッドに憂生はシャドウ部分が多いもの書きだとかいた。
自分のつたなさを棚に上げて考えている。
その考えとは
読者様の文中に書かれていないものを読み取ってくれる読解力に支えられている物書きであること。
と、
そんな読者様に恵まれているありがたさということである。
だが、実際、たとえば、どういう風に読解力があるかというか?
どこが、シャドウか?
つまり、物語にとりまぎれ、
読者様も書かれていないものを読み取っていることを自覚して無いのではないかと思った。
そこで、一文。先ほど挙げた物語から・・・。
「明美。哲司の為にご馳走をつくろうよ・・・」
明美の後姿を見つけてそういったとき、
明美はないていたんだ。
哲司の前で涙一つ見せず気丈に振舞った明美が
肩を震わせてないていたんだ。
「明美・・・」
心配そうな声に明美はちょっとふきだして、背中をむけたまま、てを上げてオッケーサインをつくってみせた。
これをそのまま読めば、ちょっと、ふきだして・・・は、意味が通じない。
だが、読者様は、書かれていないものを読み取る。
強がりの明美が弱みを見せまいとする。
あたしの心配に大丈夫、そんなに心配されること無いわよ。
そんなに、弱そうにみえちゃった?
とても、うまくかけないんだけど、いろんな心理が内包されている。
でも、あたしの方をむくことはできない。
あたしの方を向いたら、くずれていきそうで、平気なふりをつくろって、
後ろ向きのまま、サインを出すしかない。
明美の性格もこの一言に内包される。
それを、読者様はすんなり読み取ってしまう。
読み手は書き手以上のものをよみとってしまう。
つくづく、ものかきは、読者あっての「ものだね」
そう思う。
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