城へ入ると本丸の前の広い庭に緋毛氈が敷き詰められ男衆は、かがり火を焚く為の薪を運び、要所要所に要具を立てこんでいた。女たちは蔵から取り出した膳を柔らかな布で拭き込んでは台所に運び込んでいる。器も加賀の金箔をあしらった漆黒の上等な品である。それを、横目で眺めながら政勝は庭を突っ切ると海老名と何か話しこんでいる澄明の元に向かった。政勝に気がつくと澄明の方も歩み寄ってきた。
「思ったとおりです」
澄明はくぐもった顔で政勝に
「無駄かもしれませぬ。いえ、無駄でしょう」
と、言う。政勝にはさっぱり道理が得ない。
「とにかくは映し身が誰であるか判らぬと、鬼がきたのも知らぬ存ぜぬでは相すむまい」
「そうですね」
澄明は深い溜息を付く。
「いったい、何だ?」
だが、澄明は尋ねられたため息のわけをすぐには語ろうとはしなかった。
「いずれ」
澄明が小さく答えるのを聞くと政勝も黙った。
昼を過ぎる頃から各所より、要人が参内し始めた。
刻限まで寛いでもらう為に部屋に通すと近習の者が引き下がり、慌ただしく御茶にお菓子と運び込む女中が廊下を行き交う。
「今宵は現れるのか?」
鬼がである。政勝の問いに澄明は押し黙った。
「それが判らぬのか?」
「いえ」
「ならば何故?何故?結界を張らぬ?」
「すでに鬼の在る所に無意味です」
「どこに?」
はやくも、鬼が現われていると言う。
しかし、政勝にはその気配さえ感じ取れなかった。
「お気付きでない。無理もない」
訝しげに澄明を見る政勝の袖を澄明は引張った。
宴が開かれる中庭に直垂が貼られいよいよ、かがり火に火が入り始める宵闇の中で澄明がやっと一言、政勝に漏らした言葉を聞くと政勝はもう一度尋ね返した。
「姫が、鬼であると?」
「はい」
「なにを、寝ぼけた事を。空言も体外に・・・」
澄明の顔がぐうと空の一角を見据えるとそのまま動かなかった。
その、澄明の哀しげな顔を見ると政勝は二の句を継げなかった。
澄明の顔を惟、じっと見ている政勝であった。
『姫が、鬼である?』
緋毛氈をそそと踏みしめて勢姫があらわれた。
膳を運ぶ女中たちがすっと引下がって勢姫を通すと姫の艶やかさに女達がほうううと溜息を付く。
御付きの者が南の座に抱えた琴を据えると姫は金糸銀糸に彩どられた琴の袋を解いた。琴は備後の鞆で誂えた逸品である。
螺鈿を施され漆黒の上塗りが鮮やかな光沢を放っている。
上等な品であるのは、元よりだが、その品を勢姫にあつらえた主膳の姫への愛着ぶりが伝わってくるようでもあった。
勢姫は琴柱をたてると調子を調えるのであろう。琴爪を嵌めると軽く琴をかき鳴らした。琴に、慣れるほど琴の腕は上達している。
何度も調律せぬうちに支度が整ったようであった。
要人たちに先じて主膳が現れるとすっかり、用意の整った膳を眺め、満足そうに頷くと
「あないせよ」
と、告げた。
要人たちを迎える為に近習の者達が散ばると主膳は勢姫を見た。
姫は爪をつけると琴を試すかのように奏で始めた。
主膳は事の他、勢姫を溺愛している。その姫が手ずから琴を奏でようというのである。ぽんぽんと手を叩き悦にいっている。
海老名が勢姫の為に御神酒を運んだ。勢姫は小さな杯を取り上げると左手に持ち換え月に捧げるように仰ぐとくっと一息で飲み干した。
「月に愛でられて螺鈿もいっそう光り輝いております」
海老名は勢姫から杯を受取ると琴を眺めた。
幼き頃よりの手習いの琴の腕は、それを教えた海老名を当の昔に凌いでいた。
かがり火が燃え立ち、辺りが物憂く暗闇に沈んで行く中、琴の調べが響いて行く。
各所の要人が座に座る頃にはかがり火は良き火となり、月は天空高く冴え渡り始めていた。
「あな、美つくしや」
月を称えるとも勢姫を称えるともつかないため息があちこちから聞こえる頃、京の三条時守重富が主膳の前に額ずいた。
父の三条平守重喜に代わっての参内であった。
「おおっ」
主膳の声が大きく響く。
「父君はいかがかな?」
「申し訳御座いませぬ。よる年波に勝てぬ気性の弱さ。京より参ずる事も叶わず私が代理として参内して、お詫びのほど申上げるようにと父からもくれぐれとくどいほど念をおされて参りました」
「ほほう。重喜殿がのぉ。なんとも残念ではあるが、なに、ご子息の?」
「時守、重富でございます」
「重富殿か。確か、重喜殿の最後の・・・」
「はい。齢五十を過ぎての子ゆえ、兄上からも孫のようだと笑われております」
「なるほど」
近因の者を囲っての愛着振りとの評判が高かったがこの若者の顔を見ていると側女であった、いこいとやらいかに美貌であるかが思いはかれんばかりだった。
「年はいくつにあいなりてや?」
「かぞえで、二十になります」
勢姫がかぞえの十九。若き公家が勢姫に並ぶとも劣らぬ美しい姿態であったのも気に入ったが、歳格好も勢姫に良く似合っているように思えた。
主膳がふと勢姫を見ると、姫は琴の手を休めて重富を食い入るように見ている。
事の他、勢姫の方がこの美貌の若き公家に興をそそられているようであった。
が、主膳の胸に刺すような痛みがあった。
『男を知った女のあさましさ故、かように、食い入るように見やるのであろうか?』
そんな哀しい痛みであった。
当の重富も琴の音が途切れたのがふっと気になったのであろう。
主膳の眼の先を追うようにして勢姫を見つけるとその眼がもう、動こうとしなかった。
「あれか?」
そのようすをじっと見ていた政勝が澄明に声をかけた。
「いえ、そうでは御座りませぬ。重富様は間違いなく、人の身。移し身ではありませぬ。が・・・」
勢姫の食い入るような目が余りにも妖しい光を帯びている。
「鬼めは、三条殿の姿を借り受けておりますな」
澄明は政勝に告げると胸の内でなにか唱えているようであった。
しばらくすると、顔を上げた澄明がおもむろに喋り出した。
「私の読みには、いずれ三条殿と勢姫の婚儀が整うと出ております。鬼めは、これを先に読んで三条殿の御姿で現れていたに相違ないと」
「すると、姫は?」
「いえ、多分。鬼と判っておられての上の御執着でございます」
「鬼が姫を謀っている訳ではないと言うのか?」
「鬼・・・」
澄明が手を握り締めると九字を切った。
「勢姫様と同じかぞえの十九。悪童丸の名は衣居の山に捨つられた時に産着に『この子、悪童なりて捨つるを已む無き』と始まる手紙が馳せられているのから取られた名前」
「鬼が鬼を捨つるか。酷い事を。故に鬼なのかもしれぬか・・」
「・・・」
「姫がそれを知って憐れと思うて情けをかけたのが却って仇になったのであろう?」
「政勝様。そう御思いになるのなら決して要らぬ情けをかけてはなりませぬ」
途端に、澄明の言わんとすることを察した政勝の顔がむっとした顔になる。
ねちねちと采女との事を皮肉る為に鬼の事を引き合いに出してまで言わねばならぬ程かのとへの恋情が醒め切らぬのかと思うと、何処かでぞっとする思いを抱いた政勝でもあった。
「ふん。鬼の片恋を庇う気持ちも判らぬではないがの」
「何を言われる?」
「いや、同病相憐れむも、いい加減にせねばの」
澄明の頬が薄く染まりその、瞳が悲しげな色に変るとそれを隠すように俯いた。
「なれど、叶わぬものを」
抑えきれない心の内を曝け出しかけた澄明だったがはっと我に返った。
「すみませぬ。澄明は、己を制するにまだ足りておりませなんだ」
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