白い朝に・・・
書いてある所まで、揚げました。
(意外と長い・・・)
随分、前に書いて放置している間に
世の中
随分 進んでしまい
時代遅れになっていることや、
逆に
周知のことになって
くどい、説明(と、いっても、説明文でなく
物語の中に織り込む・・ので、なお、長くなる・・)になったり。
当時、精神科というのが、
気軽にいける
と、いうのと
人に知られたくない
と、いうのとの
ちょうど、端境期だったように思います。
精神病院というと
鉄格子にかこまれた場所に
ー気が狂った人ーが
収監されている病院というイメージがあり
精神病院自体、働き手が少ない
敬遠されるというパターンだったのか、
逆に、給料が良かったとか。
鬱病というのが、
社会的に認められるようになって
ー例えば、鬱病の発症が会社に原因がある
と、なったら、療養補償がでる、とかー
まわりに、鬱病の人が居る場合があったり
で、
最初に、注意されたのは
ー鬱状態の人に、頑張って、とか
励ましちゃあいけないー
鬱になる人は、責任感が人1倍強いから
「頑張って」と、言われたら
なおプレッシャーになる。
と、言うものだった。
どういう風に、捉えればよいかも
まだまだ、知られていない状態で
「しっかりしろ」とか
「根性がない」とか、
叱咤する人があらわれたり、と
鬱病にたいして、
マイナス的な捉え方があった。
そのあたりが、ずいぶん変わったと感じる。
心療内科という言い方も浸透してきて
不調がきついと
「ちょっと、心療内科にいってくる」
「心療内科にいって、みてもらったら」
と、いう感じで
門戸が広がったと思う。
ただ、自身、一度だけ
心療内科にいったことがあるけど、
(その医院の対応の仕方にもよるのだろうけど)
医者と対峙した時
自分が
「自分の思いを、判ってほしい」だけなんだなと感じて
以後、行くことは無かった。
どういうんだろう。
孤独って、いうのとは違うんだけど
誰かに判ってもらおう、と、いうのでなく
自分で自分を抱く 強さを持たなきゃ
なにか、事あるごとに
誰かに依存(とも、違うが・・)していかなきゃならなくなる。
一人で立てる、強さ。
と、いうか・・・・
確か・・・
邪宗の双神のなかで
その思いを象らせている。
白銅の科白?思いだったか
ひのえをなくしたら、
そのまま、寂しいままに吹かれている。
なにかで、ごまかしたりもできないのだけど
ごまかすことができないからこそ
寂しいまま、その風にふかれるしかない。
(探すのが大変なので・・書いたが、ちょっと違うwww)
強さというのでもない。
その思い、誰も、判ろうはずもない。
風にふかれる強さ
なぜ、こんな思い方、考え方をするのか、
自分でも判らない。
判ってもらおう
と、するのが、いけないという意味でもない。
意気地
と、いうのか。
孤独を埋めようとしたら
ろくなことにならないwww
我慢でなく
辛抱する。
代替はない。
辛抱する
つらい(辛い)のを、抱く
抱ける自分になりたいという意気地かな?
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