玄関先に現われた一樹の声で比佐乃があっと小さな声を上げると
一樹にむしゃぶりついて行った。
「元気でおったか?身体はつろうないか?よう、ここまできてくれたの」
比佐乃の顔を見る為に一樹は比佐乃の肩に手をおき
ほんの少し比佐乃の身体をおしやった。
身体を少し離されて、比佐乃は一樹を真直ぐに見上げた。
「ああ。相変わらず・・綺麗じゃ・・ますます、母さまに似て来た」
泪が潤んで来る目元さえ亡き母親を思い起こさせる比佐乃なのである。
久方の逢瀬に浸りこんでいる二人を裂いてまで、一樹を責めることもできない。
因縁の時に一歩近づく恐れが身体を震わせていたが
波陀羅は
「比佐乃さま・・・早うにあがってもらわねば・・・」
奥から声をかけた。
「ああ・・・そうでした」
比佐乃も慌てて一樹を招じ入れたのである。
床の間には、春を感じるのか軽く綻び掛けた梅が、無造作に活けられていた。
「もう・・・用事はすんだのですね?」
梅をも、花開かせようかという笑顔で比佐乃は一樹に尋ねた。
「いや・・・しばらくしたら・・・戻らねばならぬ」
湯茶を持って来た波陀羅に軽く礼をすると
「そういうわけですから」
約束を破った事には目を瞑ってくれと暗にいう一樹の言葉を
比佐乃は、一樹が帰って来たならと波陀羅にでて行かれてしまっては
比佐乃が困るだろうと一樹が気を病んだのだと受取り
「この人が本当に帰ってこれるまでは居って下さいね」
比佐乃が波陀羅にいうと、
それでは、自分の心が伝わっておらぬと付け加えた。
「若しお厭でなければ、ずううと、おってくだされると
比佐乃はもっと嬉しいと思っております」
比佐乃がそこまでいう言葉を聞いているだけで、
波陀羅が比佐乃に細やかな心配りで接していてくれているのが、
見えてくる一樹である。
「比佐乃が事・・・よろしくお願いします」
一樹も波陀羅に頼み込んでいた。
「この方と、おると、母さまと、おる様で、本当に心が安らぐのですよ」
比佐乃はそういって、波陀羅を見詰ていた。
「もったない言葉を」
肩袖で溢れてくる泪を押さえていた波陀羅は、今こそ、幸せの頂上にいたのである。
比佐乃を労わる様に見詰める一樹のその瞳を一身に受けて
頬を薄紅色に輝かせている比佐乃。
その二人に母親のようだと思って貰えているのである。
久方の逢瀬を邪魔するのは、母親でも許される事ではなかろうと
波陀羅は、二人をおいて夕餉の材を誂えにいく時にした。
あの様子でどう考えても比佐乃が一樹を殺すという馬鹿な気を
起こすわけはないと考えたのである。
「ご馳走を用意しましょう。誂えに行って参ります」
と、言いおけば、
「忘れずに波陀羅の分も・・・皆でたべましょう」
比佐乃の言葉が返って来ていた。
銭も比佐乃は波陀羅に渡している。
こんなに沢山入りませんよ、と、いう波陀羅に
持っていて下さいと、波陀羅を信じ頼りきっている比佐乃なのである。
その事でさえ波陀羅に泪を零させていた比佐乃なのである。
奥の気配が甘やかなものなって行くのを察しながら
「言ってまいります・・・。遅うなりますが・・・。心配なさらずに」
玄関先から声をかけると波陀羅は外に出ていった。
外に出た波陀羅は、
もう少し先の事であろうと踏んでいた一樹の帰宅にため息をついていた。
同時にどうして比佐乃が一樹を殺そうという心根になるのだろうかと考えていた。
比佐乃が一樹を憎む筋があるとすれば
一樹が波陀羅との事を話す時が考えられるが、
其れを話す馬鹿もいるわけがない。
手繰りきれない答えを堂々巡りで考えていると、
波陀羅はやはりどうにかこの因縁を避けられぬものかと考えるだしている。
その時、ふと湧いた思いに波陀羅の足が止まった。
その思いとは
『一樹の姿に我が身を映せばよいのではないか・・・・』
と、いう事だった。
さすれば、何もかもがうまくいくのではないか。
澄明も確かに中が違う者であっても外側のしたことが因縁になるといっていたのである。波陀羅が一樹に替わってしまえばよいのではないか?
映し身であっても成り立つ事ではないのだろうか?
ならば、我が死ねば良い。
後は澄明が差配してくれる事であろう。
波陀羅である一樹の身体を乗っ取った双神を潰えてくれさえすれば、
二人のあれほど仲の良い様子であれば、
これも澄明のいう通り、御互いの情で魂を潤す事ができてゆくのではないか。
これで、全てが助かる。
波陀羅はそう、考えつくと心が浮き立つほどに、足取りも軽くなって行ったのである。
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