どのくらいの時間僕はそこにいたんだろう。
あおむけの目の上には雲を運ぶ空がある。
僕は雲の流れをじっとみつめつづけていた。
空の中に落ちそうになる錯覚は
僕を幻影にいざなう。
Ryoukoがそこにいて・・・。
ぼくは、手を伸ばす。
つかもうとすると、ぼくはまっさかさまに落ちて行く。
あきらめるしかない事実が僕をいたぶり、僕は、涙の海を泳ぐ。
Ryouko・・・。
Ryoukoへの追慕をぬって、誰かがこの庭石に近づいてきていた。
不意に人の気配を感じた僕は腕で顔をおおいかくした。
なき顔なぞ見られたくは無かった。
だけど・・・。
草いきれをかきわけて、近寄ってきた気配は僕を目指していた。
僕を見下ろす影を感じながら僕はそいつがどこかに立ち去るを待つために顔を覆い続けていた。
『話が出来るかな』
抑揚のない中年男性の声。
僕は其れがRyoukoの「男」のものだと直ぐにわかった。
胸の中にこみ上げてくるものは悲しい怒りと、苦しいせめぎ。
僕はのろのろと、身体を起こすと、
男が座れる場所をあけた。
「うん・・・」
男は僕の横にすわる。
長い沈黙が続き、僕のほうが堰を切った。
「Ryouko・・・は、元気にしていますか・・・」
男の横顔は良心の呵責のせいか、どこか萎縮して見えた。
「そのことなんだけどね・・・」
男はRyoukoの存在をあっさり肯定する。
僕はその言葉だけでも、
不覚なものがこぼれそうになる。
「なんですか?」
言いにくそうに口ごもる男へ、なぜもこう気を使わなければ成らないのか。
其れは何もかも、Ryoukoが二人の男の位置を入れ替えたせいだ。
僕は卑屈に未練な男。
男はなにもかも、てにいれた。
Ryoukoの居場所が天秤の支点をずらし、
Ryoukoへの愛撫はこの男だけの特権。
僕はうらやましげに其れを眺めるオス犬で・・。
「いいにくいことなのだがね。
このままではりょうこ君の気持がね・・・」
「はなしてください・・・」
僕はRyoukoの名前を持ち出されたばかりに
男の何らかの申し出をうけるしかない。
ていのいい、男の言い分でしかないだろう。
男は「私が」と言えば僕が聞き入れない事を知っている。
僕はいまだにRyoukoのしもべでしかなく、
男は大上段にたって、Ryoukoを振りかざせる自分を見せ付ける。
いかに、Ryoukoが男のものであるか、僕はいまさらに打ちのめされる。
「実は・・・」
男がおもむろに口を開いた事は、実に簡単な事だった。
男が唐突にきりだした。
「君に父親らしい事をしてほしいんだ」
ああ。
僕は男の言葉の奥底の意味をかみ締めていた。
確かに僕は僕たちの子供をやみに葬った。
だけど、其れは男の金でしたことだ。
代償にRyoukoは男に身体を与えた。
だから、Ryoukoが稼いだ金だった。
Ryoukoが僕のものであるときまで、
Ryoukoの稼いだ金で僕は始末をつけたにすぎなかった。
だけど、Ryoukoは男のものになった。
このときから、男の金でRyoukoは僕の子供を始末した事になる。
「そうですね。それじゃあ、まるで、貴方が父親のようで・・・
Ryoukoは貴方に負い目をかんじているんでしょうね」
男は戸惑った顔をしたけれど、
「そういうところだね」
と、うなづいた。
Ryoukoのために、
僕たちの唯一の結晶であったものを
本当に葬り去るために僕は父親であった責任を果たす。
そうでなきゃ、Ryoukoは僕を吹っ切れず、
僕の愛を信じることなく
僕に身体だけもてあそばれた痛みを引き摺る。
悲しい行為に泣くのでなく、
優しい真実を胸にだいて、
それでもこの男を択んだRyoukoになりたいのだろう。
其れがせめて、Ryoukoが僕に出来る誠意なら、
僕は過去をあがなうしかない。
「わかりました。わずかづつですが、お金をかえしにいきます」
僕はそのときこそが本当のRyoukoとの決別だとわかった。
なにもかも、しはらいおえて、
僕は死んだ子に始めて父親だと言える。
父親だと言える僕になったとき
Ryoukoとつながっていられた、たった一つの共通項をなくす。
呵責。
Ryoukoは僕をそこから解き放とうとしてる。
Ryoukoの願う僕の解放のために僕は死んだ子供に父親の責任を果たす。
///Ryouko・・それで・・いいんだろ?・・・///
僕はRyoukoの悲しい瞳のわけを思い知らされた気がした。
そして、
僕は庭石を飛び降りると、
男に頭を下げた。
「Ryoukoを・・・よろしく、お願いします」
それだけいうのが、精一杯だった。
男がすまなさそうに頭を下げるのを僕は目の端でとらえた。
その瞬間、僕は男の前から走り出した。
僕の目には
男に抱かれるRyoukoが見えた。
男はRyoukoを我が物だといっている。
僕は・・・
男に染み付いたRyoukoをかぎとる。
男の手がRyoukoのまあるい乳房をまさぐり、
感極まったRyoukoの切ないあえぎがきこえてくる。
それは、僕がRyoukoをしっているせいにすぎないのだろうけど、
それと同じように
Ryoukoがあえぐ。
その幻影を見つめ続ける事なぞ、僕は出来なかった。
それからの僕はただただ、工場と一人ぼっちの部屋への往復だけをくりかえし、
月末の給金を受け取る日だけが、唯一の遠出になった。
夕方の闇の中で、生活に必要な金だけを抜き取ると、
中身を確かめもせず、
男の家に向かう。
出来るだけユックリ歩いてゆけば、男が先に帰宅している。
僕の計算は歩みの速度を調整し、
Ryoukoとの別れをつんでゆく。
もう、何度Ryoukoを感じ取れる事が出来るかわからない。
男からRyoukoを嗅ぎ取るだけの惨めな逢瀬でも、
Ryoukoはそこに居る。
秋の月夜の中を歩き、
冷え込んだ空気が月を冴えさせて、
やがて、僕の胸から吐き出される息が白く見える。
僕は今、Ryoukoの男のもとに金を運ぶためだけに日々をいきぬいてきていた。
そして、
師走。
僕のいやな予感は的中する。
年の瀬に
工場長は気前のいい大盤振る舞い。
僕は渡された、寸志と言う名の賞与の袋を見つめ続けた。
この金をわたせば・・・・。
こわばった手先がいつものように給金の中から生活に必要な金を抜き取る。
正月を迎える・・・。
だけど僕は首をふった。
ぼくの手もそれ以上の金をぬきとろうとしなかった。
新しい年を迎えたとて、
僕の生活に何も変わりはない。
そして、寸志の袋。
これも別段必要なものじゃない。
だけど、これも渡せば・・・。
きっと、それで、Ryoukoと僕の別離と言う名の積み木は完成し、
積み上げた積み木がもう幼い子供の玩具でしかなくなったことを受止める事になる。
その時期をもう少し先延ばしにしたところで・・・。
工場をひけると、僕の足はやっぱり男のもとにあるきだしてゆく。
―これでいいんだー
ひかれた軌道からは逃れられない。
わずかばかりの抵抗で運命に逆らってみたって、終着点が変わるわけじゃない。
もう・・・。僕は・・・・ふんぎるしかない。
じたばたとあがいてみせたところで、もう、決着はついている。
それならば、もう、無駄な足掻きをせず・・・。
一刀両断。
むしろ、さばさばと・・・。
そうさ。
そして、新年を向かえ、
Ryoukoを去年という刻の中にうめてしまおう・・・・。
だから、
―これでいいんだー
僕は僕の心の奥底を促して行く足の歩みにしたがって行く。
そうさ。
Ryouko。
僕らの夏はやっと・・・・今日終わる。
松の内だというのに、角にたてる松もない。
火の気一つない部屋に布団はしっきぱなし。
除夜の鐘を数えながら、唯一の冷気の遮断物の中で暖をとった。
Ryoukoがここに居た頃、二人で布団の中に包まれたことを思い出す。
一夜が明ければ、
僕もこの部屋も何も変わらないのに
新しい年になっている。
なのに、僕は正月三が日の休みを布団の中で過す事になるだろう。
元旦の朝とて、年が変わったらしいこともせず、
布団の中にうずくまっているだけの僕の中で変わったことといえば、
「Ryouko」
のことだけだろう。
僕はRyoukoを思い出す。
それは、とうとうと解けまくった末に途切れた糸を巻き戻して行く作業に思える。
僕はユックリその糸を巻きなおして行けばいい。
千切れた糸はもう、糸車をまわしほどけてゆきはしない。
僕だけの思い出の中をRyoukoをたぐりよせながら、
絡まぬように、もう一度僕の糸車に巻き込んでゆく。
Ryoukoは居ないけれど部屋の中、そこかしこにRyoukoがしみついている。
僕はユックリ糸車を巻きなおしてゆく。
いつか、糸の端が見えてくるのを
少しでもおそくさせたくて、
僕の愛しさをこめたくて、
僕はユックリと、糸を巻いてゆく。
「Ryoukoは・・・」
僕はつぶやく。
「Ryoukoは・・・」
去年の正月は二人で布団の中だったよね。
「Ryouko・・・」
僕のひとみはつぶやきがあふれさす涙の海におぼれそうになっているよ。
「Ryouko・・・・」
時に眠りが悲しみを癒してくれる。
僕の神経は
眠りに飛翔し・・・僕は夢を見た。
ありえたかもしれない夢が僕をつつみ、僕は夢の中でRyoukoにあう。
夢は優しく僕を包み、僕は・・・その夢を反芻する。
****
Ryoukoが僕の枕元にたっていた。
Ryoukoはかがみこむと僕に
「もどってきていいよね」
そういったんだ。
僕は黙って布団を捲り上げてRyoukoをうながした。
Ryoukoは
小さな荷物を僕の傍らに置くと布団の中にもぐりこんできた。
僕は小さな荷物の存在をいぶかしげにながめたっけ。
「あのね・・私達の赤ちゃん・・・」
僕が荷物と思ったものはまだ、生まれたてに見える赤ん坊だったんだ。
「ながしてしまったんじゃなかったんだね・・・」
僕の問いにRyoukoは
「そうよ」
と、うなづいた。
「そうなんだ・・・」
僕は間抜けた返事を返しながらRyoukoのことばをきいていた。
「おじさまがね・・・」
ああ・・夢の中のRyouko。
君にもやっぱりあの男がついてまわるんだ。
「お金なんか、いつでも返せるよ。君の中の命は一度なくしたら取り返す事は出来ないよ。って、おっしゃってくださったの・・・」
僕はまどろむ頭の中でRyoukoの決断をりかいした。
「それで、Ryoukoはでていったんだ?この子をうむために・・・?」
「そうよ。おじ様がそうなさいって」
そうなんだ?
僕はそうとも知らずRyoukoを悲しい娼婦にまつりあげてしまってたんだ。
「この子を亡くしたら、貴方が一生くるしむ。私はそう思ったの・・だから・・・」
Ryoukoの声が泣き声になった。
「貴方と離れ離れになって・・・どんなにつらかったか・・・・」
Ryouko・・・。
もういいんだ。
Ryoukoがいれば、僕はそれで充分なんだ・・。
泣き出したRyoukoをだきしめ・・・・・
・・・・・。
・・・・・・。
?
!
これは?
これは本当に夢?
やけに生々しいRyoukoの肌の感触。
おくびをあげた小さな命の塊。
え?
僕はあわてて布団から置きだした。
「Ryouko?」
そこに居たのは、紛れも無く僕のRyoukoだった。
Ryoukoは小さな命の息吹をだきあげると、
「もどってきていいよね?」
と、僕におそるおそる、たずねた。
黙っている僕がRyoukoには怒っているように見えたんだろう。
「ね?いいよね?」
Ryoukoはもう一度、僕に尋ねた。
Ryoukoを見つめていた僕の瞳から滂沱のつぶがおちる。
Ryoukoの瞳からも同じものがあふれていた。
「合いたかった」
Ryoukoが僕の元に返ってくる。
ううん。
初めからいままでも、Ryoukoはずっと僕のものだった。
僕がRyoukoを見失っていたんだ。
なのに、Ryoukoは何も言わず僕についてきた。
「あのね・・」
Ryoukoの顔が少し泣き笑いになった。
「なに?」
Ryoukoはおかしそうにこらえた笑いを含みなおした。
「あのね・・・。まだ、この子には、なまえがついてないの・・・」
「うん・・」
「お父さんにつけてもらわなきゃって・・・」
「うん・・・」
お父さんはもちろん僕だ。
「よかったねえ・・お父さんが名前つけてくれるって・・」
抱きしめた小さな命を覗き込むとRyoukoは又かすかに笑った。
「お父さんが母さんを許してくれなかったら・・・貴方一生、名無しのごんべさんだったんだよお・・
よかったねえ」
Ryoukoが赤子に語って見せたRyoukoの不安。
ふがいない父親でしかなかった僕を責めもせず、
僕にあいされなく成る事だけにおびえる
僕だけのRyoukoがかわらず、そこにいた。
そして、Ryoukoはしたたかに僕を愛し、
僕を望む。
Ryouko・・・・。
「ここが夢の扉・・・」
お前が広げた夢の扉は今、僕の生活になった。
Ryouko。お前こそが、僕のすべてになった。
愛するものたちのために
・・歩む日々を取り戻させたRyoukoに。
僕は今こそ告げなければいけないと思った。
「愛しているよ」
と。
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