その様を呆然と見詰めていた比佐乃は
やがて一樹の傍に静かに歩み寄った。
そして、比佐乃は持っていた脇差しを一樹の後ろ首から突き立てていた。
邪鬼丸の命を奪った刀は、
邪鬼丸の存念を晴らすが如く、
時を経て、その時波陀羅の腹の中にいた陽道の子を、
邪鬼丸が殺された時と同じ形で仇を討ち終えるかのようでもあった。
刀の切っ先が波陀羅に届き、その痛みで波陀羅が覚醒した時、
おびただしい血の海のなか、
比佐乃は気を喪失し、まなこは一点を見定めず
焦点を結んでおらず呆けた顔のまま、座り込んでいた。
波陀羅は何が起きたのか、すぐには悟れなかった。
咽喉わを刺された一樹は絶命しており、
双神が二人で一樹の身体を持ち上げるとなみづちが刀を引きぬき
一樹の身体の中にいなづちが入りこんで行った。
一樹は起きあがると
「波陀羅、さらばじゃ」
言った途端に消え去って行ったのである。
やっと、何が起きたのか判った波陀羅には、哀しんでいる暇が無いのである。
波陀羅は事の顛末を考えるしかない。
八代神の言うように鬼が棲もうていたというてみようかとも考えたが、
どちらにせよ比佐乃は一樹を亡くした事に苦しむだけである。
それならいっそ夢でも見たのでしょうと空とぼけてみせようか、
一樹が帰ってきた事も夢であれば、波陀羅との情交も夢。
比佐乃が一樹に刀を通した事も夢。
帰ってくるのを待っているほうが幸せかもしれないのである。
波陀羅はそう決めると
比佐乃が呆然と、気を逸しているのを幸いに
比佐乃を着替えさせ血を拭取り寝床に連れ行くと臥せ込ませた。
天井だけをぼんやり見詰めている比佐乃が憐れであったが、
兎に角先に一樹の血の始末すると、
刀を元に戻し、一樹がいた形跡を一切、拭い去ったのである。
さしもの波陀羅も血糊に濡れた布団の始末と替わりの布団には困った。
柄なぞどうでもよい。
どうせ、比佐乃はまともに波陀羅が持ち込んだ布団なぞ見てはいない。
が、比佐乃が正気に戻った時に、
布団がないのはおかしいとでも言われたら、事である。
思案の末、波陀羅は澄明の元にいこうと決めた。
どうせいでも一樹の事を報告しておかねばならないのである。
牛密時も過ぎ、草木も眠るどころか
草木が目覚め始めるのではないかという、朝に近い
闇の中を波陀羅は澄明の元にひた走った。
波陀羅の声に起きだしてきた澄明は、
闇の中の波陀羅の抱え込んだ布団から立ち上る血の匂いに
何があったかを察していた。
「澄明・・・・比佐乃が・・・・」
布団を足元においた波陀羅を澄明は抱き支えると
「双神は・・・やはり?」
一樹の身体を乗っ取ったかと尋ねた。
「お前の言う通りじゃった。
比佐乃が気をなくしておるに、
一樹の事は無かった事としてしまおうと思うのじゃが・・・どう思う?」
波陀羅が懸念する事は八代神が言った
比佐乃が因縁通ったを良しとせねば、因縁繰返すという言葉であったが、
比佐乃に事を告げて果たして良しとする事ができるかどうか?
其れこそ、正気を取戻した時に比佐乃自体が狂いはてるのではないか?
どう考えても、
どう、誤魔化しても
比佐乃が己が手で一樹の命を絶った事を
一樹に憎しみを向けた自分を、苦しむだけなのである。
「比佐乃さんは?」
「狂うたように眼を開いて・・・人形のように・・・」
「そうですか」
「澄明。何もなかった事にしようと思うに。血の始末もしてきた。
これだけが弱って、持ってきたに。
この始末とそれに、できれば替わりの布団をかしてもらえぬか?」
澄明は少し考えていたが
「判りました」
急いで、部屋に入りこむと布団を引き出してきた。
「双神がこと」
波陀羅とていっついを加えにすぐにでも追いかけて行きたいのであるが、
比佐乃が事をすませねばならぬのである。
「判っております。政勝の所に近づいて行く事は目にみえている事です。
一樹の死を、無駄にせぬ様に、
必ずや・・・比佐乃と比佐乃と一樹の子を・・・」
「判っています」
澄明から渡された布団をかき擁くと
波陀羅は今きた道を脱兎の如くに駆け戻り比佐乃の家に入って行った。
覗き込んで見れば、異常な興奮と事の事実を否定し
現実から逃げようとする比佐乃は眠りの中に逃げ出した様で
軽い寝息を立てていた。
目覚めた時を失わず波陀羅は兎に角、
「一樹様が帰ってきていた?ご冗談でしょう。
淋しくなった余りに夢をみてらしたのでしょう?」
そういうて通すしかないと決めると、もう一度一樹が帰ってきていた事を
証だてるような落ち度を残していないか、念入りに確認をいれ始めていた。
夜がしらしらと明けるのを待つと、澄明は
すぐに白銅に言霊を寄せて白銅を呼んだ。
開けきらぬ空に日の光が刺さぬ内に、白銅もやって来た。
「いよいよか?」
黙って頷く澄明の目が、心なしか赤くうるんでいる。
波陀羅の存念を思って泪を溢れさせながら
夜が開けるのを待っていたのであろう。
「何時でも・・・呼べばいいものを」
澄明にかけた言葉に
「政勝らの所に双神が現れるのは、まだ・・・其れこそ夕刻ではないかと」
こんな時間でもまだ早いのをそれでも呼ばずにおれなかったのだと
澄明は言い分けをしていた。
白銅は澄明の身体を寄せ付けかき擁くと
「どういう手筈を考えておる?」
白銅の腕の中の澄明は、ひどくか細く弱い女でしかない。
その澄明に与えられた使命と不幸事への係わり合いの重さは
澄明には、どんなにか悲しく辛い事かと思うと
白銅はせめても、澄明の身体を包んでやる事しかできない。
「政勝が所へ式を隠しおいて見張らせておこうと思っております。
我等はどこか近くで待機して双神が、いや、一樹が現れたら踏み込みましょう」
「かのとは?」
「双神が欲しいのはかのともです。
出切る事ならかのとも手にいれたいのでしょうから、
かのとに危害は及ばないと思います」
「大丈夫かの?」
かのとをたてに取られたりはしないか?という事が白銅の危惧であった。
「必ず仕留めます」
その覚悟故にもかのとを窮地に晒しておく澄明であるなと、悟ると
同時にこれが澄明の帳尻のつけ方なのだと澄明の不器用さに白銅は
「お前らしい」
と、笑って見せた。
「はい?」
白銅の笑いに訝し気な返事を返した澄明である。
「どうせ、一樹を見殺しにせねばならなんだ事を、
波陀羅に詫びるが為にも、かのとだけをしゃあしゃあと逃がしてやることができない。
かのとを窮地に晒しておく替わりに、必ず仕留める。
その覚悟に天が乗る。双神の最後じゃろうの」
「かのとには、済まぬ事かもしれませぬが・・・」
「何。お前が仕損じればかのとも生きている甲斐がない先々になるに。同じ事よ」
澄明は髪を括っていた紙縒り解くと、式神を生じさせた。
式神に
身を隠し政勝が所に男が現われるのを見張り、
男が現われたら澄明が元に返ってくる様に韻を与えた。
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