矢嶋武弘・Takehiroの部屋

83歳のジジイです。 日一日の命
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青春の苦しみ(12)

2025年01月08日 04時01分57秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

14)研修

 就職が決まって一安心していると、歌舞伎研究会が夏休み中に長野県の蓼科で合宿を行なうということが分かった。 行雄は以前ほど歌舞伎に関心は持っていなかったが、面倒臭い就職問題も片付いて気が楽になったせいか、気分転換も兼ねて合宿に参加しようと思った。

 また、蓼科高原の自然の中で、百合子と一緒に合宿生活を送るのは、他に多くの学生が参加していようとも何か“淡い期待”を抱かせるものがある。 彼はこれまでの百合子との諍(いさか)いのことなどは忘れてしまい、歌舞研の幹事に合宿への参加を伝えた。

 ところが、その翌日(夏休みに入る直前だったが)、一学期の最後の講義に出席した後、教室を出た所で行雄は待ち構えていた百合子から声をかけられた。彼女の方から話しかけてくるのは滅多にないことなので、何事かと思ってしまう。

あなたが歌舞研の合宿に行くのなら、私は行きません」 百合子は勿体ぶった口調で言った。突然そう言われても、行雄は何と返事をしたらよいのか分からない。つまり、自分と一緒の合宿では嫌だというのだろうか? 「面白くないのです。 歌舞研の中には主流派と反主流派があって、勢力争いをしているのです。あなたがそれに巻き込まれるなんて見たくもありません。とにかく、あなたが合宿に行くのなら、わたしは参加しません」 彼女は釘を刺すように言った。

 俺と一緒の合宿が嫌だから、歌舞研の中の争いを理由にして、百合子は参加しないと言っているのだろうか? それとも、本当に勢力争いに関わらせないためにそう言ったのだろうか? 行雄は彼女の発言の真意を質そうかと思ったが、自分が合宿に参加すれば彼女は来ないと意思表示したのだから、もう合宿に行く意味はないと考えた。

「それじゃ、僕は行かないよ!」 吐き捨てるようにそう言うと、行雄は百合子から離れた。彼女から邪魔されたという思いが強かったが、せっかく合宿に行っても彼女がいないのなら、淡い期待も何もあったものではない。俺が行かなければ彼女は参加する? それは向うの勝手だろうと考え、彼はその日のうちに、何の理由も告げずに合宿不参加を幹事に伝えた。

  それから数日して、徳田が行雄の自宅に電話をかけてきた。彼は滅多に大学に来ていなかったので、夏休み中の文学部や仏文科の予定などが気になって聞いてきたのだ。雑談をしていると、誰から聞いたのか、彼もFテレビへの就職を行雄が決めたことを知っていた。彼の話しによれば、高村は近くA新聞社の試験を受けるという。

 徳田のアルバイトや行雄の家庭教師の話しなどをしているうちに、卒業論文の話題に移り、彼はポール・エリュアールをやるが、まだまったく手を付けていないと言った。行雄がアンドレ・ジッドをやるつもりで準備を進めていると言うと、「えっ、そうか。中野さんもジッドをやると言ってたよ」と彼が付け加えた。

 その瞬間、行雄は動揺し、これは具合が悪いと思った。よりによって、百合子と同じ作家を卒論で扱うということに抵抗を感じる。 彼は徳田と適当に話したあと電話を切ったが、卒論のことが重く心に伸しかかっていた。歌舞伎などの趣味では百合子と同一歩調になっても良いが、卒業論文という重要な課題で彼女と一緒になるのは受け入れられない。

 つい先日、歌舞研の合宿参加を事実上、彼女から“妨害”されたことにも彼は反発を感じていた。 それに同じ作家を扱えば、卒論審査の主査も同じ人になるだろう。そうなれば、自分と百合子は何かと比較されるに違いない。自意識の強い行雄にとっては、それは嫌なことだった。

 もともと彼は、ロマン・ロランを卒論で扱いたかったのだが、堕落しきっている自分にはこの作家は高貴すぎると思い、諦めた経緯がある。 しかし、今や百合子と同じ作家を扱うことに耐えられない気持になり、行雄は卒論でジッドを取り止めロマン・ロランに切り替えることに決めた。

  彼は新たに卒論の準備を始めたが、夏休みなので暇を持て余していた。それに就職が決まっているので、どうしても心に“ゆとり”が生じてくる。 旅行や遠出の予定もないので、少しは東京見物でもしてみようと思い、定期券を有効に使って都内を見て回ることにした。その主な理由は、翌年にオリンピックが開催されるため、大きく変りつつある東京を目(ま)の当たりにしたいというものだった。

 行雄は6年ぶりに東京タワーに上ったが、眼下に広がる光景を望遠鏡で覗くと、高速道路の工事を始めオリンピック施設やホテルなど高層ビルの建築ラッシュで、都内の景観は凄まじい勢いで変貌している。特に高速道路の工事は急ピッチで進んでいるようだ。

 2ヵ月ほど前、旧江戸城跡の高速道路4号線の工事現場から、長さ100メートルほどの“謎の地下道”が発見され、考古学者らが喜び勇んで調査を始めていたのに、オリンピックを最優先とする道路公団が、その地下道を取り壊したことを行雄は思い出した。

 江戸城の構造や築城技術を知る上で、又とない絶好のチャンスだっただけに大きな物議を醸したが、オリンピックのためなら多少のことは仕方がないということで、世論もそれを認める風潮になっていた。

 地上に下りて山手線などに乗ってみると、東京駅では夢の超特急「東海道新幹線」の開通を翌年に控えている他、地下鉄の新路線もどんどん整備されており、まるで東京から日本が生まれ変わっていくような雰囲気である。 このため、都内のどこに行っても“活気”が漲っているように感じられた。それは真夏の太陽の下の熱気だけではない。東京自体が熱く燃えている感じなのだ。

 行雄は汗をふきふき都内を歩いたが、途中で喫茶店に立ち寄り、涼しいクーラーの中でアイスコーヒーを飲むと生き返った思いがする。そして又、彼は表に出て街を散策するのだった。 彼はふと、ちょうど1年前の夏休みに橋本敏夫の故郷・豊岡を訪れたことを思い出した。

 あの時は、日本海の眺望を楽しんだりして自然に親しんだが、今は東京のど真ん中で人間の活気に触れているのだ。 人類の祭典・オリンピックを1年後に控え、この街はいま急激に様変わりしている。そうした中で俺は来年、社会へ“巣立つ”のだと思うと、何か活力が湧いてくるような気持になるのだった。

 

 そうした日々を送っているうちに、Fテレビから8月末に最初の職場研修を行なうという通知が来た。急な連絡のように思えたが、行雄はそれまでに卒業論文のメドを立てておこうと、ロマン・ロランの著作をいろいろ調べ直すことにした。

 彼の書物はすでに数多く整えていたが、小説、戯曲、伝記もの、評論、日記など厖大な量になるため、当然“テーマ”を絞らなければならない。いろいろ考えたが、行雄が傾倒する「汎神論」を軸にロマン・ロランの思想を検証していくことになった。

「汎神論」と言えば「エチカ」を書いたスピノザが有名である。そこで行雄は、スピノザから影響を受けた大好きなゲーテと、ロランとの関連はないものかと調べてみると、彼の「自伝と回想」や「ゲーテ論」などで3人の巨匠の“接点”があることが分かった。 このため行雄は、スピノザ哲学を軸とした「ロマン・ロランのゲーテ研究について」をテーマにすることに決めた。要するに、ロランのゲーテ研究の核心は、スピノザの「汎神論」に在るということである。

 行雄が卒論の作業を進めているうちに、Fテレビの研修の日がやって来た。二次試験を突破して採用が内定した36人のうち、3人は他の会社への就職を選んだのか研修には参加していなかった。 Fテレビの中堅幹部が各セクションの職務内容などを説明した後、人事担当の役員を中心に再び面接が行なわれた。

 どうして今頃になって、また面接をするのかと不審に思っていると、最終日の3日目になってその理由が分かった。驚いたことに33人の内定者のうち10人ほどが、Fテレビと資本関係のあるS新聞社への採用を通知されたのである。これでは約束が違うと怒って、S新聞社への就職を拒否した者も数人いた。 

 結局、行雄を含めて23人が最終的にFテレビへの採用に決まったのである。この中には、大学の同じ仏文科に在籍する片山順一もいた。ただし、片山はAクラスだったので、人付き合いの薄い行雄は初めて彼と言葉を交わすことになった。

 

 9月の新学期が始まって暫くすると、高村がA新聞社への合格を決めた。 ある日、行雄は徳田と高村と連れ立って喫茶店に入り雑談に興じていると、徳田が羨ましそうに言う。「二人とも就職が早く決まって良かったな。 僕なんか試験勉強も何もしていないから、まともなマスコミにはとても入れそうもない。まあ当分は、フランス語関係の翻訳でもしていくしかないな」

「自由業みたいでいいじゃないか。君は会社勤めは向いてないだろうし、“彼女”も翻訳に熱心なんだろう?」高村が答えた。徳田の彼女とは、Aクラスの小野恭子のことである。 「うん、小野もいろいろフランス関係の仕事をしているよ。彼女は将来、フランスで働きたいと言っていたが、どういう仕事になるかは分からない。僕もいずれそういう方向で仕事を探そうと思っている」小野の話題に触れたせいか、徳田は明るい口調で語った。

「恋人と合い携えてか、仲が良くて羨ましいよ、ハッハッハッハッハ。彼女と協力し合っていけば、相当な仕事ができるはずだ。 大体、君はこれまでアルバイトで儲け過ぎだよ。君みたいに稼いでいる学生は他にいないんじゃないのか。授業にもほとんど出て来ないんだから」高村は愉快そうに混ぜ返すと、また笑い声を上げた。

「ところで、君達の会社はどういう風になっているんだ?」徳田がこちらに話しを振ってきたので、行雄はFテレビの研修の模様などを話した。 高村もA新聞社の話しをしていったが、記者は車の運転免許ぐらいは取っておかないと駄目だというので、会社の負担で目下、教習所通いをしていると言う。

「タダで運転免許が取れるなんて、最高じゃないか。大新聞は違うね」行雄が感心して言った。「いや、それがけっこう大変なんだ。俺は不器用なので、なかなか運転が上手くならない。 それに、教習員の態度が偉そうで腹が立ってくるよ。女性には優しく教えるくせに、俺たち男となると、実に態度が横柄で威張りやがる。 この前なんか、殴ってやりたいと思ったほどだ。ハッハッハッハッハ」高村がまた大笑いしたが、新聞記者への道が開けて“やる気”満々という感じである。

「君はテレビ局に入って、何をやるんだ?」今度は高村が聞いてきた。 「いや、まだほとんど考えていないが、まあ出来れば、制作部門へでも行ってドラマを作るか、ドキュメンタリーでもやってみようかと思っている。でもテレビ局なんて、総務とか営業とか編成とかいろいろあるから、どこへ配属されるかまったく分かっていないんだ。一応、希望は聞かれるけどね。 その点、君はいいよ、始めから新聞記者になれるんだからな」

 行雄が答えると、高村が言った。「それはそうだが、新人は最初の基礎教育を受けた後、どこへ飛ばされるか分からない。北海道や九州へ行くこともある。その点、君は東京でやっていけるから、いいじゃないか」 そんな話しをしているうちに、三人はクラスメートの就職状況の話題に移っていった。

 「中野さんはエール・フランスを受けたが、落ちたと言ってたよ」百合子のことに詳しい徳田が語った。 その時、一瞬だったが、行雄は彼女に対し優越感を覚えた。自分はこんなに早く就職を決めたというのに、百合子は第一志望のエール・フランスを受けて落ちたのである。

 ざまあ見ろとは言わないが、小馬鹿にしてやりたい感じがする。いつも彼女に冷たくされている思いがあるから、彼は初めて相手を見下す気分になったのだ。「なんだ、中野さんは就職をしたがってるの?」行雄が徳田に聞いた。

「そうだよ、彼女はとにかく就職したいらしい。エール・フランスが駄目だったから、僕も知っている所は当たってやっている。フランス大使館などいろいろあるからね」「君は顔が広いね、さすがだな」行雄は徳田の交際範囲の広さに感心して、素直にそう述べた。 そのうちに彼は、少しは百合子に同情する気持になり、俺は彼女のことを想っているというのに何もしてやれない、実生活では徳田の方がはるかに良く彼女の面倒を見ていると思った。

 いろいろ話していると、出版関係の就職はやはり厳しい状況だということが分かった。入社試験がほとんど始まっていないため、そちらに進みたい学生は落ちることを覚悟して、大学院へ進む用意をしている者が何人もいるという。行雄と高村が就職を決めていたので、三人は明るい会話を交わして別れた。

 

 それから暫くして、行雄は22歳の誕生日を迎えた。22歳になったということが、何か“前向き”の気持にさせるのだが、就職が決まったというだけで他にほとんど変化はない。 日頃の授業には適当に出席していたし、週2回の家庭教師のアルバイトもいつもどおりこなしていた。

 百合子との関係は相変らず冷え切っていたが、歌舞伎研究会のサークル活動でも顔を合わせるし、歌舞伎を団体観劇する時は、彼女が熱心に舞台を見ている様子を、横目で窺っているのが楽しかった。 ただ、卒業論文のことが次第に気になってきて、その準備に取り組まざるを得なくなった。

「ロマン・ロランのゲーテ研究について」というテーマは決まったが、スピノザ哲学を軸にして検証するため、古書店に行って大正11年刊行の小尾範治訳「エチカ」(岩波書店)や、昭和10年刊行のゲーテ著・村岡一郎訳「形態学のために」(改造社)等を購入するなど慌ただしくなってきた。

 行雄はそれらの書物を読み始めたが、ふだん哲学や自然科学に余り馴染みがないせいか、難解に思われて重苦しい気分になった。しかし、卒論は完璧に仕上げなければならない。彼は自分に、我慢だ忍耐だと言い聞かせながら読んでいった。

  そんなある日、行雄が生協の食堂で徳田と雑談を交わしていると、片山順一とばったり出会った。彼はニコニコ笑いながら近寄って来ると二人の隣に座ったが、徳田とは面識があるようで、改たまった挨拶はしなかった。

「村上君、きのうFテレビから研修の知らせが来たけれど、忙しくなってきたな。君は問題はないのだろう?」片山が声をかけてきた。 そう言えば、きのう行雄の所にも、11月初旬に一週間ほど研修を行なうという通知が届いていたのだ。

「うん、僕の方は家庭教師のバイトを一回ぐらい飛ばせば問題はないよ。君の方は?」「ああ、いろいろあるけれど、もう会社優先でいかないとね」 片山はそう言うと、今度は徳田の方に声をかけた。「君のクラスの渡辺さんというのが、うちの会沢とすっかり仲が良くなっているというじゃないか」「渡辺さん? ああ、中野さんの友達のね。そうか、会沢君とね・・・」

 この後、片山の話しを聞いていると、彼の友人であるAクラスの会沢邦彦が渡辺悦子と交際を重ね、今や婚約目前だという。徳田はAクラスの小野恭子と“事実上”夫婦関係にあるから、A・B両クラスの間で二組のカップルが誕生しそうだ。

 片山は同じクラスの小野を知っているので、顔の広い徳田とはかなり以前から面識があったようだ。 クラスメートや就職の雑談をしているうちに、徳田が真面目な顔付きになって行雄に語りかけてきた。「君も就職が決まったのだから、中野さんと一緒にやっていけるじゃないか」

 それは冷やかしではなく、真剣な口調だった。何か胸に短刀でも突き付けられた気持になり、行雄は返答に窮した。片山も興味ありげにこちらの顔を窺っている。「うん、考えておくよ」暫くして彼はそう答えるしかなかった。

 いろいろの話しがあったが、中野百合子は依然として就職先が決まっていなかった。会沢はつい最近、国立国会図書館への採用が決まったとのことで、これで気持の整理が付いたのか、渡辺悦子との関係が急速に進展したらしい。行雄はそれらのことを聞いているうちに、いよいよ自分も“決断”しなければと考えたが、肝心の百合子との関係は一向に進んでいないのが現状だった。


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