矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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昔のフジテレビ(1)

2024年12月16日 13時23分55秒 | フジテレビ関係

<はじめに>

以前、「Yahoo!」のマイブログに書いた連載記事だが、ブログを“全面削除”されたため幾つかの記事が消失してしまった。しかし、その後、親切な方々のご支援により、全面的に復元することができた。この場を借りて、感謝の意を捧げたい。 復刻に当たっては、一部記事を修正・補筆している。(2012年4月9日)

フジテレビの旧本社ビル(東京・新宿区の河田町)

 1) ふと、昔いたテレビ局の思い出話を書きたくなった。年を取ったからだろうか。 だからと言って、○×テレビと名前を出すのはどうも照れくさい。どうせ自分の身元はばれているのだが、やや「エッセイ」風に書くのが良いようだ。その方が自然に、客観的に書けそうだ。つまらない話だが、若い頃を振り返るのも悪くないだろう。これから折々に書いていくつもりだ。まず労働組合騒動から話していこう。

☆ 私がFテレビに入ったのは1964年(昭和39年)だったが、その約2年後に「労働組合」が誕生した時は驚いた。というのは、Fテレビは財界のテレビ局という感じで、日経連出身の鹿内信隆氏らが経営を取り仕切っていた。労働組合なんてとんでもないという社風だったから驚いたのだ。
当時、亡き次兄から「西武鉄道とFテレビに労働組合が出来るかどうかが、最も注目されてるんだぞ」と聞いたことがある。私は労組には全く関心がなかったので、「へ~、そうか」ぐらいにしか思わなかった。たぶん、組合結成の噂がいろいろ伝わっていたのだろう。
普通の企業なら労働組合があって当たり前である。しかし、前述したように“財界テレビ局”では労組はタブー視されていたのだ。そうは言っても、「女子25歳定年制」など前近代的な制度がある会社では、それはおかしいという声が上がって当然だ。こうして、1966年5月にFテレビ労働組合が結成された。ちなみに、労組の初代委員長は、後に女優・吉永小百合さんと結婚する岡田太郎氏であった。
ところが、社長の鹿内信隆氏は烈火のごとく怒った。労組がないことを誇りにしていた鹿内氏は、たぶん社員に裏切られたと感じたのだろう(鹿内氏は“家族的”な会社を目指していたようだ)。 彼は一時、管理職全員の辞表を取りまとめ、労組と全面対決する姿勢を打ち出した。そこから、Fテレビ労働組合騒動が始まる。

その頃の私は労働組合には全く関心がなかったが、同期の社員らのほとんどが組合に加入したので、いわば“付き合い”で組合員になった。しかし、考えが保守的だったせいか、組合運動にはどうも違和感があった。時限ストで職場放棄などがあると、とても嫌な感じがしたのだ。仕事はあまり出来なかったくせに“仕事人間”だったかもしれない。
同期の仲間は私に「組合活動をしたって、愛社精神には変わりがない」と言う。報道の職場では、後にFテレビの社長・会長となる3年先輩の日枝久さんらが、熱心に組合活動を進めていた。労働者の権利を主張するのは当然だと思うが、その一方で、ストで職場放棄するのがどうも馴染めなかったのだ。
会社側も黙ってはいない。組合結成から2~3カ月すると、会社側は「協議会」なるものを作ろうと動き出した。これはいわば“第2組合”のようなもので、労使が話し合いで事を進めようというものだ。当然、ストなどの実力行使は認めないことになる。
組合結成から4カ月後に「Fテレビ協議会」が誕生した。こうして、組合対協議会の対立を軸に事態は動いていった。(続く。2011年12月26日)

 2) 「Fテレビ協議会」は労働組合員でも誰でも加入できるのだが、事実上の“第2組合”だから労組員が入ることはほとんどなかった。しかし、もともと組合が嫌いな人や、上司に上手く説得された人たちが徐々に協議会に入っていった。その場合、労組を脱退する人もいれば、わずかだが労組員のまま加入する人もいた。
私は組合に馴染まなかったが、同期生のほとんどが労組員なので組合に留まっていた。ある日、職場の非組合員である先輩のA氏が「矢嶋君、君もそろそろ考え直してはどうか」と、私を説得しに来た。そこでA氏と私はある晩、居酒屋へ行き長々と話し込むことになった。
何を話したのか詳しく覚えていないが、私は「協議会は保守なら良いが、むしろ反動だ!」と強く反発したと思う。A氏と私の話し合いは物別れに終わったが、彼は共通の上司である石川士郎部長に説得が失敗したことを報告した。すると、石川さんは非常に怒って、翌日だったか「もう、君とは縁を切る!」と通告してきた。これには参った。
というのは、石川さんは単なる上司ではなく、私の次兄の大学先輩に当たる人で、彼は学生の頃わが家に何度も遊びに来たことがある。当時、まだ小学生だった私は石川さんと面識ができ、その後、Fテレビに入る時もいろいろお世話になった。そういう関係だから、石川部長から「縁を切る!」と恫喝されると弱ってしまうのだ。それから、私の煩悶が始まった。
次兄や職場の先輩たちに相談すると、組合に残ったまま協議会に入ればいいじゃないかという意見が多かった。そうしても何ら問題はない。しかし、私は性格上、“二股膏薬(こうやく)”というのが大嫌いだった。石川さんとの縁を切って組合に残るか、それとも組合を脱退して協議会に入るかの二者択一しかないと思った。
今から思えば大したことではなかろうが、当時はとても真剣に悩んだ。悩み抜いた末に、私は組合脱退、協議会加入の道を選んだ。その結論を石川さんに報告すると、彼は満面に笑みを湛えて喜んだ。他方、私の組合脱退について、同期生の友人らは非常に怒った。「こいつめ、裏切ったな」と思ったに違いない。中には「お前は会社側に付いて、自分の立身出世しか考えないのか!」と難詰する者もいた。また、私の立場を知っていて、「やっぱり、石川さんと君の関係か・・・」と言う者もいた。(続く。2011年12月27日)

 3) 労働組合騒動というのは、どうしてもドロドロした色合いを持つ。 Fテレビの場合は組合対協議会という図式になったが、会社側としては話し合い路線の協議会の勢力が強まることを願うのが当然だ。 まして、経営トップは日経連出身のあの鹿内社長である。いろいろな形で、組合潰しの工作が進められた。
私がいた報道局は初め、組合員の方が多数だったと思うが、あの石川部長が陣頭に立って組合の弱体化を図ったのである。石川さんは鹿内社長に従ってニッポン放送から移ってきた人だ。
ここでFテレビ草創期のことを簡単に話すと、文化放送とニッポン放送がこのテレビ局を創ったようなものだ。 株主には松竹や東宝などの映画会社も入っていたが、株の大部分を文化放送(QR)とニッポン放送(LF)が持った。だから、経営者も社員も大多数が両放送局の出身だった。職場にはQRやLFの出身者が数多くいたのだ。
鹿内氏がFテレビの社長に就任してから、ニッポン放送色が強くなったのだろうか。石川さんが「労働組合の結成は、文化放送出身者のクーデターじゃないか」と語っていたのを思い出す。 それはともかく、鹿内社長の“懐刀(ふところがたな)”である石川部長は、報道の職場から組合色を取り除くために奮闘する。

ここで、思いもかけない“奇手”が登場する。当時、Fテレビの報道なんか弱小もいい所だった。それは仕方がないだろう。会社が出来てからまだ6~7年ぐらいしか経っていなかったのだ。 報道の現場では主に、「共同テレビ」からの出向者が仕事をしていた。共同テレビとは、共同通信がテレビ時代に備えて創ったものである。そのニュース部門の人達と、われわれFテレビ社員は一緒に仕事をしていたのだ。
結論から言うと、報道の職場では、共同テレビの社員を「組合に加入しないこと」を条件に、Fテレビが引き取ることになった。 私はこれを“奇手”と言ったが、テレビ報道を強化するためには一つの時代的な流れだったと思う。 同じ仕事をしていて、給与も労働条件も違うのはおかしいではないか。「同一労働・同一賃金」が当然である。
こうして、最終的にたしか100人余りの共同テレビ社員がFテレビに移籍した。Fテレビ社員になったのである。その大多数が報道に来たので、報道の職場は“非組合員”が圧倒的に多くなった。
これによって、Fテレビ報道局はニュースの自社制作体制を固めたのだが、非組合員が圧倒的に多くなったことで、今までの組合員らは心理的な圧迫を受けたと思う。存在価値が薄まってきたのだ。そして、豪腕の石川部長による組合崩しが一段と強化されていく・・・(続く。2011年12月28日)

 4) 石川部長の労働組合潰しは当然、組合員の配置転換や人事異動に現われてくる。彼は報道の職場から組合色を一掃しようと思っていたから、その処置は苛烈であった。組合員の社内異動は当たり前だが、関連会社に出向させられる者もいた。組合活動に熱心だった先輩のKさんなどは、北海道の系列テレビ局に飛ばされた。
 また、報道の仕事に生き甲斐を持っていた組合員の日枝久氏(後のFテレビ社長・会長)も、社内異動ではあったが編成局に移された。日枝氏は石川部長に直談判し抗議したが、石川さんに「お前のような優秀な人間は、報道局には要らない!」と一喝されたという。日枝氏はこれに憤激したが、石川部長の組合潰し旋風には抗しきれるものではない。こうして、報道の職場から大多数の組合員がパージ(追放)された。ごく一部の若い組合員だけが報道に残ったが、そのくらいは大したことがないと石川部長は考えたのだろう。とにかく、組合活動の中心になっていた者はみんな飛ばされてしまったと思う。
 こうして、報道の職場では事実上ストライキがなくなり、極めて統制の取れた形になった。ある社員は、報道局について「まるで“関東軍”みたいだ」と言ったという。強力な軍隊式組織ということか。
 
しかし、新聞や通信社に比べると極めて貧弱だったFテレビの報道は、これにより一致結束して仕事に取り組む体制を整えたと言えるだろう。当時、私は保守的な人間だったし、石川部長と個人的に親しかったから仕事がやり易くなったと思った。そういう体制をおおむね歓迎したのである。しかし、組合員にとっては、石川さんは正に敵であり悪人に見えたのだ。そこには“怨念”も生じただろう。
 これによって私と同期入社のM君(組合員)は、どうも気まずい関係になっていった。M君と私は入社以来 仲が良かったが、組合騒動が起きてから次第に疎遠になっていく。当時の緊迫した情勢から見れば、これは仕方がなかっただろう。
 ある年の春、昇給の査定で私がM君よりも1ランク上に行ってしまった。もちろん、石川部長の人事査定である。これを知って、M君は「小石が流れ、葉っぱが沈んだ」と言って悔しがったという。普通は小石が沈み、葉っぱが流れるのだから、世の中は理不尽だという意味だ。それを聞いても、私にはどうすることも出来なかった。それが上司の人事査定なのだ。
 ただし、ずっと先のことを言うが、後年、「組合派」が社内で大躍進し、「非組合派」が冷や飯を食うことになろうとは、当時、誰が予想しただろうか。会社人間の運命とは面白くもあり、また皮肉なものだ。それについては、おいおい語っていきたい。(続く。2012年1月6日)


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