無知の知

ほたるぶくろの日記

『誇り』あるいは基礎的な『自信』について1

2018-03-08 07:10:16 | 日記

最近の若い方を観ていて、精神がのびのびしていていいな、と思います。萎縮していない、ということです。

私の若い頃は、ともかく自分に自信が持てなかった。まわりの方と話していても皆、「日本はダメだ。日本人はダメだ。日本にいてはダメだ。」とそんな感じでした。特に生命科学の世界ではそういう風潮が強く、だから海外に行って何かを学んでくる。そういう思考回路の方が多かったように思います。

私は、というと、そういう自己否定的で卑屈な態度にうんざりしていて、もう少し自分の足下について誇りを持ちたいものだ、と思っていました。何がそんなに劣っているのか。どこが問題なのか。だめだだめだ、と言っている方はそれで本当にいいのか。研究室では1ドル360円という為替レートの時代に留学し、経済的にも潤って帰国した方達が「『では』のかみ」となって「欧米『では』、、、」を連呼している時代でした。

そもそも日本においての自然科学の原型はそっくりそのまま欧米からの移植です。教科書も翻訳物が殆ど。とくに大学教育課程での教科書は海外のものでした。日本に根付いていないな、という浮遊感がありました。自分たちの文化の延長にないものを「学ぶ」とは、どういうことか?結局なにか表面をなでるような、技術的な何かを「学ぶ」しかない。もっと根源的な自然を理解するための「アイデア」を提示することが、自然科学の最も大切なことのはずなのに。

私がヨーロッパにしばらく行っていたのは自然科学の神髄を知りたいと思ったからです。自然科学は文化そのもの。技術ではない。だから学ぶものというよりも、その中に浸かって体験し、自分の生活の中に入れなくてはどうにもならないと思っていました。

向こうでは、クラッシック音楽を勉強されている方達と大分交流しましたが、彼らも同じことを言っていました。目に触れる風景、聞く音、匂い、言語、人々の様子、それら全てが音楽に直結し、何かを理解させてくれる、と。

自然科学の思考のあり方は文化そのものなので、それは日常の生活の中にも生きているのです。日本での自然科学は、明治以降に突然上から降ってきた『学問』だったわけですが、そういうことではとても自分のものにはなり得ない、日本のものにはなり得ない、と思っていました。

そこは中高生の時代から私の中のある違和感として存在した自然科学への気持ちのいちぶであり、長らく自然科学の世界にいながらも、何か違う、と思い続けていた部分なのでした。

長くなりました。また日を改めて続きます。