石破 茂元幹事長が農林水産大臣だった時に広域農協の
直売場作りで大変なお力添えをいただきました。
北九州空港の在る福岡県苅田(かんだ)町の商店街青年
部長として活躍された頃からのお仲間で大変懇意にして
いた友田敬而苅田町議会議員から「町内のスーパーが
2店とも撤退して商店街の食料品販売が無くなり来街者
数が激減しそうだ、何かお力添えを」という依頼を受け
直ぐに北九州空港に飛び現場を見させていただきました。
地元金融機関の隣に大きな駐車場が有り奥には地元の
お寺さんの土地が有るという絶好の土地を見つけ友田
先生に地元の調整をお願いしたのですが農林水産省の
担当課長さんから「今、何月だと思っていますか?
11月ですよ、予算が有りませんし来年の分も決まって
います。この話が形になるのは再来年です」と言われて
しまいました。
私は諦めません。農林水産委員でもないのに開会前の
委員会に入り石破大臣に「あなたが広域農協の直売場を
作れと言うから動いたのに再来年じゃなければ出来ない
なんて言われたら今後、現場は国会議員の言う事を誰も
聞かなくなります!」と少々強く申し上げました。
石破大臣はちょっと困った顔をされましたが「わかった、
後は任せてくれ」という事で引き下がったのですが
翌年5月には広域農協の直売場が開設され農協の皆さんは
もちろん、地元の消費者の皆さんにも喜んでいただけた
という思い出が有ります。
菅先生も石破先生も決して上から目線の言葉は無く凄く
動きやすかったことを思い出します。もうお一人総裁選に
立候補を噂される岸田文雄政調会長さんとは残念ながら
議員現職の時に関わることは有りませんでした。
安倍首相、自民党総裁の辞任表明を受け、次の内閣総理
大臣になる自民党総裁候補として何人もの方のお名前が
マスコミを賑わしています。
その中で菅 義偉官房長官、石破 茂元幹事長には大変お世話
になった思い出が有ります。
2005年(平成17年)私が衆議院議員になり、それ
まで商店街が主体となった震災対策をもっと推し進める
ために議員連盟を作ろうと思い、新宿区のお隣、練馬区が
選挙地盤で昔から懇意にさせていただいていた菅原一秀
衆議院議員に相談しました。
「私が幹事長で安井さんが事務局長をやればいい、ところで
議連会長は?」と言われたのですが代議士になったばかりの
1年生議員には知り合いがいない事を申し上げると「それ
ならば菅先生に頼もう、面倒見の良い先生だよ」とそのまま
菅先生の議員会館事務所に伺い「首都圏地震対策議員連盟」の
会長就任をお願いし、快諾していただきました。
菅先生が総務大臣になる前の話です。何回か議連の会合を
開いた後、菅先生から「素晴らしい活動だから首都圏という
名称を外して地震対策議員連盟にして全国展開も考えたら」
というお言葉をいただいた事を思い出します。
昨日(8月28日)安倍晋三首相が持病の悪化、体調の
不安を理由に辞任表明をされました。7年8か月の長い間、
首相という激務、本当にご苦労様でした。
第一次安倍内閣の辞任表明は2007年(平成19年)
9月12日(水)私は衆議院議員現職でした。「首相
辞任!」という速報は本会議前の議事堂自民党控室で
開かれていた代議士会で見て驚いたのを覚えています。
その週の月曜日に国会が召集されたのに、なぜこの時期に
辞任なのという思いでした。潰瘍性大腸炎という持病で
苦しまれている事を全く知らなかった1年生議員です。
何をやっても無責任に叩かれるのがストレスになった
事は間違いないでしょうが、同じことを小泉元総理に
申し上げた時に「人に褒めてもらいたいのなら議員に
はならない方が良いよ」と言われたのを思い出します。
重ねて「ご苦労様です」と申し上げます。
商店街の震災対策で防災功労者内閣総理大臣表彰を受けた
「震災あんぜんパック」、平成31年、令和2年とお休み
していますが皆さんから「何やってんだ早く再開しろ!」
という厳しくも温かいお言葉を頂戴しています。
事務局役も商店会活動にお力添え頂くことが決まった
ワンブランド社さんから「震災あんぜんパックの事務局も
お引き受けしますよ」というお申し出を頂きました。
後ろ盾になっていただく損保会社あいおいニッセイ同和
さんから「再開しましょう、その代わり勝手に休まないで」
という温かい(?)お言葉をいただきました。
来年4月から再開に向けて本格的に動きます。
ホームページも新しくしましたのでご覧下さい。
https://m-syoutengai.lomo.jp/
本日は8月15日、終戦記念日です。戦争体験者が減った、
全国民の90%以上が戦後の生まれだとよく言われますが、
もの心ついた後に昭和20年を経験していた人でカウント
すると、この数字はもっと上がるのは当然でしょう。
終戦後5年たち、朝鮮戦争が始まった昭和25年生まれの
私でも朝鮮戦争の休戦協定が署名されたのは1953年、
昭和28年7月27日ですから当時3歳、その当時の記憶は
まったく有りません。
1950年、昭和25年に食べ物商売の店で生まれました
ので戦後の食糧難の思い出も意識も有りません。それ以上に
「戦争も戦後の混乱も知らない世代」として育ちました。
その我々全員が70歳を超えたのです。
この8月の時期なると戦争の話題がメディアによく出ますが
私は想像力が有れば悲惨な状況は防げると思っていますし、
この時期はよりその思いが強まります。
表題の「70年、それも酷使・・」ですが昨日、スマホや
パソコン、テレビを見るのが辛くなったのでご近所の
眼科クリニックの診察を受けました。
診断は白内障とドライアイ、原因は加齢だそうです。
もう少しスマホ、PC、テレビを見たいので言われた通り
素直に目薬を点(さ)します。
温度や湿度などを組み合わせた指標を基に熱中症への危険
をお知らせする「熱中症アラート」が今年から都内近県を
対象に発令されるようになり連日のアラート発令です。
新型コロナウィルスと猛暑の熱中症に加え昨日は埼玉県の
川口市で1時間に82mmのゲリラ豪雨でした。
都内の雨水処理は1時間50mm限度で設計されています
ので、いつ都内のマンホールから雨水が噴出しても不思議
ではない気象状況です。想像できる事は対処方法も考え
られます。重要なのは想像力です。
本日は2020年(令和2年)8月2日の日曜日です。
前回5月10日以来の久し振りのブログ投稿です。
前回書いたように脊椎管狭窄の症状が出ていたのですが
5月28日(木)に強烈な腰痛に襲われ6月2日(火)に
レントゲン検査、3日(水)にMRI検査と進み「痛み止めを
出しますから普通の生活に影響が有るようでしたら手術」
という恐ろしい診断が下りました。
脊椎管狭窄症と脊椎すべり症は痛み止めでは治らない事は
素人の私でも知っています。
いろいろな東洋医学の先生にも見ていただき、6月26日に
私が顧問を務めている日本ブラジリアン柔術連盟の指定医
整骨院シケヤス先生の門を叩き施術を受けました。
以来、週2回のペースで伺い、お陰さまで両足先に若干の
痺れ(しびれ)は残っていますが座薬等の痛み止めのお世話
には一切ならずに生活しています。
ちょうど新型コロナ禍で全ての外出予定がキャンセルになり、
家族に心配を掛けた以外はそれ程皆さんにご迷惑は掛けな
かったと思っています。
ただ毎日「感染者数過去最高」というニュースが流れていま
すし持病を持った高齢者は重篤化するとも言われているので
十分注意して生活させていただきます。
この約3ヶ月の間にいろいろな動きも有りました。
追ってご報告申し上げますが先ずは「生きてる」事のご報告。