1888年2月から僅か2年余りの南仏での滞在で(浮世絵に深く傾倒したゴッホはなんと「日本」を求めてアルルに向かったのだ)、「機関車のように」猛烈なペースで描き続け、テオへの手紙で毎日のように絵の具と画布と生活費を要求しながら、花咲く「果樹園」を、セザンヌも描いた「クローの平原」を、巨大な黄色い夕日に照らされた「種撒く人」を、そして有名な金色の「ひまわり」を生み出した。
いうまでもなく、アルルではゴッホの発作と耳切りという悲劇的事件で終わったゴーガンとの短い共同制作のふた月があり、ゴッホを語るにこの事件を抜かすわけにはいかない。芸術家同士の協働と組合組織の実現に夢を持っていたゴッホに、この事件は深い衝撃と悔恨を与えた。その後、周囲から狂人扱いされるのを倦み、精神の安定と創作への集中を得るために、自らサン・レミの精神療養所に入ってさらに描き続けた。オリーブの畑や絵の具の盛り上がる「糸杉」や星がまるで太陽のように夜空に輝く「星月夜」といった傑作はここで生まれた。
絵の具を混ぜずに補色を大胆にキャンバス上に併置させた黄やオレンジやブルーの色彩を、怒涛のように短期間に完成させたゴッホの絵は、テオの手元に溢れかえるばかりで、ゴーガンやベルナールなどの他の若手印象派画家と同じようにほとんど売れなかった。やがてサン・レミで怖れていた精神病の発作の再発に見舞われた画家は、最早南仏の光に耐えられなくなり、90年5月、弟のいるパリに一旦戻り、精神病の良医と評判のガシェ医師のいるパリ近郊のオーベール・シュル・オワーズに移り、最後の数ヶ月の制作の日々を送る。そこで、絵画を通じて深い友情を築いたガシェの優れた肖像画などを残したが、かつての強烈な色彩は鳴りを潜め、そのパレットはくすんだ茶や緑や黄色に変化していく。弟の窮状を知り、画家は死んだ後にこそ、その作品の価値が一挙に上がるという非情な事実を計算しつくした上で、7月29日、ゴッホは自らの胸にピストルの弾を撃ち込んだ。翌日、死の床に駆けつけた弟のテオに「これで終わりにしたかった」と告げたという。享年わずかに37歳。
しかし、ゴッホの死は、本人が望んだようにテオとその新妻と生まれたばかりの子供に、幸福をもたらさなかった。兄を愛し全身全霊でその創作を支え続けたテオにとって兄の死の悲しみは余りに大きく、2ヶ月後にテオは精神の異常を来たし、故郷のオランダで半年後に兄の後を追った。ゴッホの死後、10歳以上年下で、ゴッホが生前から目をかけ親身にアドバイスもしていたエミール・ベルナールがゴッホの展覧会を催し、次第にその絵は評判を高めていった。またベルナールは、ゴッホが彼や親族に宛てた合計600通近い手紙を編纂し、1911年にこれを出版した。 そのお陰で今日私達は、「ゴッホの手紙」という作品を通して、画家の絵画への情熱とその壮絶な生き様を、まるで本人を目の前にしているかのように生き生きと知ることができる。彼の絵は、この手紙とともに鑑賞されてこそ、より深く私達の胸に忘れがたい印象を残すといえるだろう。
ゴッホの手紙の中から心に残った言葉を幾つか紹介したい。
「僕は、絵の中で、音楽のように何か人を慰めるものを語りたい。,,, 我々は輝きそのものによって、我々の色彩の振動によって、これを求めるのだ。」(中巻、P.215)
「星によって希望を表現すること。夕陽の輝きによって、ある人間の烈しさを表現すること」
「一人でいるのに、考える暇も感じる暇もないくらいだ。まるで絵を描く機関車のように動いている。この先、二度と停まることはあるまい。」
「自然に対して倦まずに仕事をして、、、、あれが描きたい、これが描きたいとか言わず、靴をつくるような調子で何ら芸術的な配慮なしに仕事をすべきだと、だんだん信じて疑わなくなった」(下巻、P.225)
たとえ発作の恐怖が、画家の精神を次第に深く侵食していっていたとしても、ゴッホは決して気が違って自殺したのではなかった。彼のテオへの最後の短い手紙は、胸のポケットに仕舞ったままだった。
「そうだ、自分の仕事のために僕は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい ―そうだ― でも僕の知る限り君は画商らしくないし、君は仲間だ、僕はそう思う、社会で実際に活動したのだ。だがいったいどうすればいい。」
最後の謎めいた言葉は、絵画さえも、ゴッホという熱狂的な生活者を汲みつくすことはついになく、画家は行き場を失った情熱に困惑し、絶望を吐露して終わったということなのだろうか。
日本で「ゴッホの手紙」に最初に着目し優れた評論を残したのは、例によって小林秀雄ではないかと思うが、彼はゴッホの手紙を「優れた告白文学だ」と言う。「何とたくさんの告白好きが、気楽に自己を発見し、自分を軽信し、自分自身と戯れることしか出来ない」なかで、ゴッホの手紙は「告白者に意志に反して個性的なのであり」、「人々とともに感じ、ともに考えるようと努める、まさにそのところに彼自身をあらわしてしまう(「近代絵画」)」のだという。 小林のこの評論では、ゴッホとゴーガンを、ヴェルレーヌとランボーの関係に比したり(ランボーが自分を去るとわかったとき、ヴェルレーヌはピストルの引金を引いた)、ゴッホと「白痴」のムイシュキン公爵の類似を指摘したりしている。 小林によれば、ゴッホの絵は「色とデッサンの格闘」の成果であり、例えば「糸杉の緑と黒は、デッサンに絡みつかれて、身を捩りながら、果てしなく天に向かう」など、絵画批評としてもなかなかのものではないかと思う。ゴーガンやセザンヌの章と合わせて読むとさらに興味深い。
いうまでもなく、アルルではゴッホの発作と耳切りという悲劇的事件で終わったゴーガンとの短い共同制作のふた月があり、ゴッホを語るにこの事件を抜かすわけにはいかない。芸術家同士の協働と組合組織の実現に夢を持っていたゴッホに、この事件は深い衝撃と悔恨を与えた。その後、周囲から狂人扱いされるのを倦み、精神の安定と創作への集中を得るために、自らサン・レミの精神療養所に入ってさらに描き続けた。オリーブの畑や絵の具の盛り上がる「糸杉」や星がまるで太陽のように夜空に輝く「星月夜」といった傑作はここで生まれた。
絵の具を混ぜずに補色を大胆にキャンバス上に併置させた黄やオレンジやブルーの色彩を、怒涛のように短期間に完成させたゴッホの絵は、テオの手元に溢れかえるばかりで、ゴーガンやベルナールなどの他の若手印象派画家と同じようにほとんど売れなかった。やがてサン・レミで怖れていた精神病の発作の再発に見舞われた画家は、最早南仏の光に耐えられなくなり、90年5月、弟のいるパリに一旦戻り、精神病の良医と評判のガシェ医師のいるパリ近郊のオーベール・シュル・オワーズに移り、最後の数ヶ月の制作の日々を送る。そこで、絵画を通じて深い友情を築いたガシェの優れた肖像画などを残したが、かつての強烈な色彩は鳴りを潜め、そのパレットはくすんだ茶や緑や黄色に変化していく。弟の窮状を知り、画家は死んだ後にこそ、その作品の価値が一挙に上がるという非情な事実を計算しつくした上で、7月29日、ゴッホは自らの胸にピストルの弾を撃ち込んだ。翌日、死の床に駆けつけた弟のテオに「これで終わりにしたかった」と告げたという。享年わずかに37歳。
しかし、ゴッホの死は、本人が望んだようにテオとその新妻と生まれたばかりの子供に、幸福をもたらさなかった。兄を愛し全身全霊でその創作を支え続けたテオにとって兄の死の悲しみは余りに大きく、2ヶ月後にテオは精神の異常を来たし、故郷のオランダで半年後に兄の後を追った。ゴッホの死後、10歳以上年下で、ゴッホが生前から目をかけ親身にアドバイスもしていたエミール・ベルナールがゴッホの展覧会を催し、次第にその絵は評判を高めていった。またベルナールは、ゴッホが彼や親族に宛てた合計600通近い手紙を編纂し、1911年にこれを出版した。 そのお陰で今日私達は、「ゴッホの手紙」という作品を通して、画家の絵画への情熱とその壮絶な生き様を、まるで本人を目の前にしているかのように生き生きと知ることができる。彼の絵は、この手紙とともに鑑賞されてこそ、より深く私達の胸に忘れがたい印象を残すといえるだろう。
ゴッホの手紙の中から心に残った言葉を幾つか紹介したい。
「僕は、絵の中で、音楽のように何か人を慰めるものを語りたい。,,, 我々は輝きそのものによって、我々の色彩の振動によって、これを求めるのだ。」(中巻、P.215)
「星によって希望を表現すること。夕陽の輝きによって、ある人間の烈しさを表現すること」
「一人でいるのに、考える暇も感じる暇もないくらいだ。まるで絵を描く機関車のように動いている。この先、二度と停まることはあるまい。」
「自然に対して倦まずに仕事をして、、、、あれが描きたい、これが描きたいとか言わず、靴をつくるような調子で何ら芸術的な配慮なしに仕事をすべきだと、だんだん信じて疑わなくなった」(下巻、P.225)
たとえ発作の恐怖が、画家の精神を次第に深く侵食していっていたとしても、ゴッホは決して気が違って自殺したのではなかった。彼のテオへの最後の短い手紙は、胸のポケットに仕舞ったままだった。
「そうだ、自分の仕事のために僕は、命を投げ出し、理性を半ば失ってしまい ―そうだ― でも僕の知る限り君は画商らしくないし、君は仲間だ、僕はそう思う、社会で実際に活動したのだ。だがいったいどうすればいい。」
最後の謎めいた言葉は、絵画さえも、ゴッホという熱狂的な生活者を汲みつくすことはついになく、画家は行き場を失った情熱に困惑し、絶望を吐露して終わったということなのだろうか。
日本で「ゴッホの手紙」に最初に着目し優れた評論を残したのは、例によって小林秀雄ではないかと思うが、彼はゴッホの手紙を「優れた告白文学だ」と言う。「何とたくさんの告白好きが、気楽に自己を発見し、自分を軽信し、自分自身と戯れることしか出来ない」なかで、ゴッホの手紙は「告白者に意志に反して個性的なのであり」、「人々とともに感じ、ともに考えるようと努める、まさにそのところに彼自身をあらわしてしまう(「近代絵画」)」のだという。 小林のこの評論では、ゴッホとゴーガンを、ヴェルレーヌとランボーの関係に比したり(ランボーが自分を去るとわかったとき、ヴェルレーヌはピストルの引金を引いた)、ゴッホと「白痴」のムイシュキン公爵の類似を指摘したりしている。 小林によれば、ゴッホの絵は「色とデッサンの格闘」の成果であり、例えば「糸杉の緑と黒は、デッサンに絡みつかれて、身を捩りながら、果てしなく天に向かう」など、絵画批評としてもなかなかのものではないかと思う。ゴーガンやセザンヌの章と合わせて読むとさらに興味深い。