6月に内閣不信任案への同調回避と引き換えに「辞める」といったはずの首相がいつまでも居座り、野党やおろか与党内でも菅降ろしが叫ばれる今の状況は、まさに異常であり、政治空白だ。 開き直った様子の菅を辞めさせても、後は一体誰がやるのか。リーダーシップとスピードをもって、今必要な対策や改革を実行できそうな政治家は見当たらない。
そんな八方塞りの状況の中で、小沢一郎の政治献金をめぐる強制起訴 / 裁判における石川知宏被告の供述が不十分として却下されるなど、小沢氏に無罪判決が出る可能性が高まったと報道され始めた。 そのタイミングを見計らったように、元秘書で衆議院議員の石川被告の「悪党」が出版されて話題を呼んでいる。 早速読んでみたが、期待したような贈収賄に関する新事実の暴露はなく、水谷建設からという5000万円の授受についてはもちろん否定されているし、政治資金報告に記載漏れがあった件も、小沢には報告はなかったとされる。 だが本書は、政治家小沢一郎の秘書として10年以上仕えたものからみた、小沢一郎の生の姿に迫れる点でおもしろい。
TVで見ると同じように、小沢は周りに多くを語らない。携帯は秘書に持たしたままで、大物からの電話でも出ないこともしょっちゅう。 秘書に挨拶するときも「おっ」くらいのものであり、「ものぐさ」であるのは確かだという。 一方で、政治家になる気で小沢の秘書になった人間は、税金で給料が出る公設秘書にはしないという清廉なポリシーもあるという。 巻末にある小沢氏と石川氏の対談も率直なもので、小沢の人柄が良く出ている。 ちなみに、小沢は「原発はもうやれんだろう」といっているし、元々そんなに原発に熱心でもなかったため、彼の地元の岩手には一基も誘致されていない。
しかし、この本以上にインパクトのあったのは、一緒に本屋で買い求めたカレル・ヴァン・ウォルフレンの「誰が小沢一郎を殺すのか?」という本で、これは日本の今の末期的な政治的状況を生んでいる問題の本質を、抉り出した痛快な本であった。 著者は、小沢一郎が20年近く前に「日本改造論」を著したころから、時代遅れとなった官僚統治から政治主導に切り替え、日本を自律した国家として導いていくという思想と意欲を持った稀な政治家であると認めていた。 そして、小沢が2009年の政権交代の直前に、政治資金をめぐるスキャンダルで代表の座を降り、首相になり損ねたその背後にある「画策者なき陰謀」の正体を明らかにする。 改革者小沢を排除しようとする既存のシステムとは、変化を怖れる官僚機構であり、その機構に乗って55年体制の下で日本を支配してきた自民党であり、その権力構造の一部となったメディアだ。 さらに「出る杭は打たれる」という具合に、日本の社会秩序の番人として振舞ってきた検察がある。 その威信は、近年の特捜部の自白強要や証拠改竄が明らかになって、決定的に失墜したことはいうまでもないが。
著者は、田中角栄や小沢のような変革者である政治家や堀江貴史のような風雲児を抹殺していく「日本型スキャンダル」の異様さと、メディアが画一的な報道で、事実かどうかもわからない風評やリークを積み重ねて政治的現実を作っていく怖さを的確に暴露している。
さらに、沖縄の基地問題などにおけるオバマ政権の鳩山政権への侮蔑的な扱いなどから、日本がアメリカに従属する自立なき日米同盟の正体に痛言し、軍産複合体となって義なき戦争をイラクやアフガンで続け、世界の金融恐慌の震源地ともなって、今や没落しつつある超大国アメリカへの一極依存の危険を指摘している。
この慧眼をもったオランダ人ジャーナリストは、1962年に初めて日本に訪れ、その後ハンデルスブラットなどの有力紙の東京特派員として活躍、日本外人記者クラブの会長も務めたこともある知日派である。 日本のメディアには決して書けない、外部から見た日本の権力の中枢、もしくは中枢なき権力システムを長年観察してきた鋭敏かつ日本を愛するジャーナリストだからこそ書けた本だ。 多くの日本人がこの本に接し、以下の著者の問いかけに応えることを望みたい。
「果たして日本には、これまで縛りつけてきたものからの解放を望む大勢の人々がいるだろうか。 そして彼らの結集をはかることで、変化をもたらすことを可能とするような、ひとつの強い声を生み出し、やがては日本を変えていくことができるのであろうか。」
小沢氏については、筆者自身、メディアの作り出す政治的現実に左右され、その評価が揺れてきた。しかし、史上最悪に近い事故を起した原発再開に関する論調や内閣のドタバタを見ても、今の永田町と霞ヶ関、大手メディアには何も変えられない、日本の政治と行政を本当に変える見識と力を持つ政治家は、もはや小沢一郎しかいないかもしれない、という気が沸々と起こってくるのだ。
(因みのこの本には、アマゾンでも5つ星の最高評価で、コメントも20を超えている。)