大塚英志の本については、昨年「おたく精神史―1980年代論」と「"彼女たち"の連合赤軍」を読んだが、1998年から「文学界」に連載された本書は、村上春樹、村上龍の両「村上」から、山田詠美、吉本ばななといった女流、さらには三島由紀夫や石原慎太郎、大江健三郎といった大御所まで取り上げており、これらの作家批評として面白い。 そして大塚がこれらの作家を検証する軸となっているのが、江藤淳だ。
第一章 <江藤淳と「サブカルチャア」としての戦後> では、70年代後半から出現した村上龍、村上春樹、田中康夫といったいわゆる「サブカルチャア文学」の作品に対する江藤の批評を検証する。 江藤は、自らのサブカル性に対する批評的視点をもたない「限りなく透明に近いブルー」を退け、「なんとなく、クリスタル」の「なんとなく、 」の句点に自己批評を見、これを認めた。 さらに、ブランドや消費文化の記号に飾られた「ナウい」女主人公を登場させ、彼氏の「淳一」との関係を「惚れた殿御に抱かれりゃ濡れる、惚れぬ男にゃ濡れはせぬ」とでもいった「古風」な情緒でまとめてみた「才気」を賞賛している。 しかし、ここで大塚は、「サブカルチャア文学」に一定の理解を見せる江藤に疑問を呈する。 江藤が1967年の名著「成熟と喪失」で、小島信夫の「抱擁家族」の妻、時子の「母の崩壊」の悲しみを読み取りながらも(上野千鶴子のような“少女フェミニスト”に涙させた)、「なんとなく、 」に描かれた「古色蒼然」とした男女関係を認めたのは間違いだったというのだ。 「なんとなく、 」の女主人公は、彼氏である「淳一」に理由もなく満たされるわけだが、「純一」はだた無根拠に「男」としてあるのであり、実はこの小説が「なんとなく、マッチョ」に他ならない、とフェミニスト?大塚は糾弾するのである。
第二章 <村上春樹にとっての日本と日本語>もおもしろい。 前半は、初期の村上のフィツジェラルド風の翻訳調文体や、江藤とも重なるアメリカ生活後の「転向?」を追うが、一番おもしろかったのは、地下鉄サリン事件に取材した「アンダーグラウンド」に対する分析だ。 サリンが残した脳障害で植物人間になった若い女性をインタビューしながら、何かを伝えようとするその柔らかな指に触れる感動的な描写が、ベストセラー「ノルウェーの森」の描写に酷似していることを上げ、大塚は、「村上はサリン事件の被害者の固有性を解消してしまっている」と批判する。「インタビューは“相手性”のない状態におかれている。村上はもともと“ジャンク(破片)”を集めてひとつの流れを作る小説家だが、アンダーグラウンドは、そのような作風から離れ、現実と向かいあうことを志向しながら、やはり成功していない」 という。 「アンダーグラウンド」の後書きで、この世の「悪」としか言いようのないサリン事件を、村上が「ヤミクロ」に喩えていること。また「ねじ巻き鳥クロニクル」の悪役たる綿谷ノボルのリアル感の欠如など、そもそも村上の小説においては「他者」は薄っぺらで記号化されている、と手厳しい。
大塚英志は、もともとコミックや劇画の原作者としてスタートし、少女漫画などいわゆるサブカルチャアの内側にいた人だ。 1958年生まれで、いわゆる「オタク」世代であるが、1960年生まれの福田和也が江藤の後継者を自認?し、「保守」、「父性」、「マッチョ」な言論を張るのに対し、大塚英志は、フェミニストに評判がいいらしい。 「戦後」の女性の解放と自立が「母の崩壊」をもたらし、消費文化に浸りこんだ80年代以降はもはや「母の不可能性」と叫びたくなる状況下で、もはや男も「父」のように生きなくていい社会となった、と大塚はいう。 大塚の視点が戦前や明治に遡った作品を書き続ける福田より、身近に感じるのは由なきことではないと思う。
第一章 <江藤淳と「サブカルチャア」としての戦後> では、70年代後半から出現した村上龍、村上春樹、田中康夫といったいわゆる「サブカルチャア文学」の作品に対する江藤の批評を検証する。 江藤は、自らのサブカル性に対する批評的視点をもたない「限りなく透明に近いブルー」を退け、「なんとなく、クリスタル」の「なんとなく、 」の句点に自己批評を見、これを認めた。 さらに、ブランドや消費文化の記号に飾られた「ナウい」女主人公を登場させ、彼氏の「淳一」との関係を「惚れた殿御に抱かれりゃ濡れる、惚れぬ男にゃ濡れはせぬ」とでもいった「古風」な情緒でまとめてみた「才気」を賞賛している。 しかし、ここで大塚は、「サブカルチャア文学」に一定の理解を見せる江藤に疑問を呈する。 江藤が1967年の名著「成熟と喪失」で、小島信夫の「抱擁家族」の妻、時子の「母の崩壊」の悲しみを読み取りながらも(上野千鶴子のような“少女フェミニスト”に涙させた)、「なんとなく、 」に描かれた「古色蒼然」とした男女関係を認めたのは間違いだったというのだ。 「なんとなく、 」の女主人公は、彼氏である「淳一」に理由もなく満たされるわけだが、「純一」はだた無根拠に「男」としてあるのであり、実はこの小説が「なんとなく、マッチョ」に他ならない、とフェミニスト?大塚は糾弾するのである。
第二章 <村上春樹にとっての日本と日本語>もおもしろい。 前半は、初期の村上のフィツジェラルド風の翻訳調文体や、江藤とも重なるアメリカ生活後の「転向?」を追うが、一番おもしろかったのは、地下鉄サリン事件に取材した「アンダーグラウンド」に対する分析だ。 サリンが残した脳障害で植物人間になった若い女性をインタビューしながら、何かを伝えようとするその柔らかな指に触れる感動的な描写が、ベストセラー「ノルウェーの森」の描写に酷似していることを上げ、大塚は、「村上はサリン事件の被害者の固有性を解消してしまっている」と批判する。「インタビューは“相手性”のない状態におかれている。村上はもともと“ジャンク(破片)”を集めてひとつの流れを作る小説家だが、アンダーグラウンドは、そのような作風から離れ、現実と向かいあうことを志向しながら、やはり成功していない」 という。 「アンダーグラウンド」の後書きで、この世の「悪」としか言いようのないサリン事件を、村上が「ヤミクロ」に喩えていること。また「ねじ巻き鳥クロニクル」の悪役たる綿谷ノボルのリアル感の欠如など、そもそも村上の小説においては「他者」は薄っぺらで記号化されている、と手厳しい。
大塚英志は、もともとコミックや劇画の原作者としてスタートし、少女漫画などいわゆるサブカルチャアの内側にいた人だ。 1958年生まれで、いわゆる「オタク」世代であるが、1960年生まれの福田和也が江藤の後継者を自認?し、「保守」、「父性」、「マッチョ」な言論を張るのに対し、大塚英志は、フェミニストに評判がいいらしい。 「戦後」の女性の解放と自立が「母の崩壊」をもたらし、消費文化に浸りこんだ80年代以降はもはや「母の不可能性」と叫びたくなる状況下で、もはや男も「父」のように生きなくていい社会となった、と大塚はいう。 大塚の視点が戦前や明治に遡った作品を書き続ける福田より、身近に感じるのは由なきことではないと思う。