白馬から戻った翌日は、8月17日のヴェルディレクイエムの演奏会のオケ合わせ二回目だ。 本番1か月を切ったあたりから、合唱の完成度もかなり上がってきた。お盆の13日~16日まで防府に帰省し中学の同窓会にも出たが、この時の飲酒が響いたのか、16日夜のゲネプロでは演奏途中で咳き込むという失態となり、大いに反省した。喉はとても敏感で疲労もするものだとわかった。翌日までに回復するかどうか心配だったが、当日午前の最後のリハーサルでは抑え気味にして、14時からの本番に臨んだ。 ミューザ川崎は音響の素晴らしい音楽専用ホールで、しかも1400人の満員の聴衆の前で、団員それぞれの思いを込めた演奏ができたようだ。聴衆の拍手は長いこと鳴り止まなかった。
今回のヴェルレク演奏会の主催は「夏際クラシック」といい、東京芸大の声楽出身の先生が2013年頃から実施している。第九で始まり、2017年からフォーレ、モーツアルトとレクイエムを歌って、今回のヴェルレクで3大レクイエムを締めくくるという形だ。 昨年12月に偶然に合唱団募集のチラシを見つけ、不安もあったが意を決して参加して本当に良かった。ヴェルレクはカラヤンとヴィーンVoのCDを長いこと愛聴しており、機会があれば是非一度歌ってみたいと思っていて、過去にもネットで合唱団募集を探したことがある。
元々ロッシーニの葬儀に向け、ヴェルディの発案で13人のイタリアの作曲家が1曲ずつ担当するという企画がとん挫し、後にマンゾーニというイタリアの大作家の追悼のためにヴェルディが全曲を作曲した。オペラ作曲家らしく、4人のソロの見せ場がたくさんあり、合唱も一つの声部が3つに分かれる複雑な箇所もあるなど、大編成でドラマチックな曲だ。 モーツアルトのレクイエムのように畏敬の念をいだかせる神聖な宗教曲ではなく、またフォーレのそれのような静謐な鎮魂歌とも違う、魂から絞り出すようなエモーショナルな曲の数々。 カラヤンのCDを聴いてもアグネス バルツァの歌うメゾソプラノのアリア“Quid sum miseri”あたりでいつも落涙するのだが、本番でもその辺で涙が出てきた。 そしてこれも美しいアリアLacrimosaのAmenをへて、長いDies Iraeの章 が終わる。奉献章のDomine Jesus Christeはヴェルディではソリストたちの歌唱であり、モーツァルトでは合唱のフーガで、ここはモツレクでは後半の山場となるが、ヴェルレクでは、その後のSanctus の優雅なフーガと、最後にLibera meという巨大フーガが待ち構えている。 それまでメゾソプラノやテノール、バスがソロの主役だったのが、この最後の曲ではソロはソプラノの独壇場で、合唱とともに壮大なフィナーレとなるのだ。ヴェルディの心憎い演出である。 YouTubeでいくつかヴェルレクの演奏を聴いたが、このLibera meのソプラノは、クラウディオ アバド指揮ベルリンVoの2001年の演奏で、アンジェラ ゲオルギューの迫力ある歌唱が印象に残った。
私にとっては、今回のヴェルレクは、ここ数年鬼籍に入ってしまった友人や同級生への鎮魂の思いを込めた演奏でもあった。まだ人生の秋を謳歌すべき歳にありながら、病に倒れた彼らには、フォーレやモーツアルトよりも、全身から絞り出すようなこのヴェルディの歌の方が、相応しかったように思える。 演奏が終わった後は、本当に全身の力を使い切ったように汗をかき、疲労していた。
オーケストラも募集で集まったメンバーだったが、どなたも中々の使い手ぞろいだった。自分の喉から直接音を出す合唱の充実感も素晴らしいが、楽器を操って素晴らしいアンサンブルを生み出す奏者たちには、やはり一種の羨望を覚える。自分もあそこに座って、指揮者のタクトを見ながら弾いてみたいと。
世の中には素晴らしい合唱曲がいくつもあるだろうが、私はやはり高校生の時に合唱部で一部を歌ったモツレクと、静かで深い情感に満ちたフォーレのレクイエムは歌ってみたい。フォーレはテノールで歌う方が素敵だろうけれども。