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yasuの「今日もブログー」

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福島原発の今を訪ねるツアーに参加

2019-11-30 | 脱原発

福島県二本松市にいる娘が知り合った元東電社員で、福島廃炉の現状を伝える活動を行っているAFW(Appreciation for Fukushima Workers)代表の吉川彰浩さんのクラウドファンディングに寄付した縁で、去る11月16日、福島第一原発と地域の今をめぐるツアーに参加した。集まったのは、西は滋賀や大阪、北は仙台からの計7名。吉川さんをガイドに、いわき駅前からマイクロバスで国道6号線を北上しながら、Jビレッジから富岡町の東京電力廃炉資料館、夜の森の桜並木、大熊町の放射線廃棄物中間貯蔵工事情報センター、そして浪江町役場傍の土産物店、最後は楢葉町の木戸駅近くの公民家で福島県産の食材でのバーベキューという内容だった。

 

この辺りを訪れたのは、2018年のGW以来、約一年半ぶりだったが、富岡町のサクラモールの駐車場にはクルマが前回の倍くらいに増えていたし、モール内ではスーパーヨークベニマルやランチのキオスクがそこそこ賑わっていて、町民の帰還はまだ780世帯で10%に満たないが、前回よりは明らかに増えていた。

 

廃炉資料館では、原発事故の発生時を再現した映像や廃炉の現状を詳しく説明する模型などの展示が充実しており、使用済み燃料の取り出しや汚染水の処理状況などへの理解を深めることができた。原子炉内での燃料取り出しから建屋の解体までは30~40年はかかる遠大な作業であるの比べ、900体ある処理済み汚染水タンクの増設も限界で、海洋放出に向けた地元住民との公聴会などが行われているが、トリチウム以外の核子が含まれているなども判明し、その道筋はなかなか立たない。

 

また、大熊町に今年1月にオープンした小さなプレハブの中間貯蔵施設の情報センターでは、福島県内の除染ごみなどを詰めたフレコンバックが毎日2000台近いトラックによって、福島第一原発を取り巻くように確保された16万平方メートルという扇型の地域に埋設される作業が2015年から始まっていることを知った。これらの廃棄物は、敷地内の専用の処理工場でふるいにかけて、そのままもしくは焼却して灰として埋設するものに分別されて、掘りこまれて遮蔽シートで覆われた敷地に層状に埋められていく。その施設は現在半分程度稼働しているが工事はまだ続いている。印象としては「施設」というより「地区」というべき広大なエリアである。最終的には県外で処理される約束だが、要するに県内どこにも引き受け手がないので、結局はフクイチ周辺の大熊町、双葉町がこれに充てられたのだ。大熊町の役場は原発から数キロ離れた常磐自動車道から西の山手に見える場所に移設されているが、その周辺に建てられた住居への住民の帰還はごくわずかである。高度の汚染地を持つ大熊、双葉町への住民の帰還は現実的には今後も殆んど進まないと思われた。

 

また、かつて夜桜の景勝地として住民に親しまれ、TVなどでも紹介された富岡町と大熊町の境界あたりにある夜の森にも立ち寄ったが、道路一本隔てて、帰還困難地域と避難解除された地域が隣接しており、その彼我の差を見せていた。帰還困難地域側は、住宅や乗用車が地震と原発事故当時のままに放置されており雑草も伸び放題。屋根やクルマは朽ち果てつつある。一方、避難指定が解除された側は一応道路も掃除され、クルマもたまにだが通行するという具合だ。来年春には近くの常磐線「夜の森」駅が新装オープンする予定で工事が進められている。新しくなる駅舎の周辺のみは避難指定が解除されるだろうという説明だった。常盤線も浪江ー富岡駅間にある夜の森、大野、双葉区間の開通に向けて作業が進められている。

 

二本松市から県道50号・国道114号線を通って一時間弱で浪江町に至るルートは昨年走行した。山間部では線量が高く帰還困難地域に指定されている場所を通る。114号線が国道6号線に交わる交差点近くに浪江町役場がある。震災後、一時二本松市に移転していた役場だが、その交差点に今年イオンスーパーが開店してようやく生活の支えになるインフラが一つ整ったそうだ。浪江町は双葉郡8町村の中でも、2万以上の人口を抱える最大の町だったが、人口が集中する沿岸部の放射線量は低いにもかかわらず、住民の帰還は1000人少々だ。かつて2000世帯近く住んでいたという請戸漁港の周辺の住宅はすべて津波で流された。漁港の再建は進んでいたが、沿岸部に住民が戻ることはもうない。少しずつ帰還は進みつつあるが、震災後9年が経とうとしているこの町がかつての賑わいを取り戻すことはもうなさそうである。避難区域解除が早く行われた南の楢葉町あたりまでは帰還も進みつつあり、かつての生活が戻りつつあるようだが、解除の遅かった地域、フクイチに近い富岡町から浪江町においては、今後急速に帰還が進むとは考えにくいというのが実状だ。

 

AFWの吉川代表が始めた木戸の公民家でのバーベキューの後、そこに宿泊もした。東京からはインド人の4人家族が2度目の宿泊に訪れ、10歳くらいの子供らは広々とした民家の畳を走り回っていた。吉川代表の奥さんやこの地域で生活する30代の男女が集まり(英語を教えているアメリカ人も)お酒を酌み交わす輪に入って、いろいろな話を聞いた。霞が関から派遣されてきた若い女性官僚が、中央と福島の現実の認識のズレに悩んでいる様子や、一旦東京の大手広告会社に就職したが震災原発事故後、復興関係の仕事で福島に戻ってそのままこちらに腰を落ち着けようとしている広告マンのことなど。

 

原発事故は取り返しのつかない失敗で、それを防ぐ十分な対応を怠った東電の責任の重さの反省は廃炉資料館で切実に伝わってきた。中央からは政府や東電の事故後の対応の悪さへの批判がある一方で、この浜通りには、故郷の復興を願い懸命に廃炉や汚染水の対応に日々当たる真面目な人々がいるという事実。そちらの側に身を寄せれば、少しずつだか廃炉作業に着手し、汚染水の量も減り、帰還も進みつつあるということになる。帰還しない人が大半でも、帰還を望む人が少数でもいる限り、自治体はその声を見過ごすわけにはいかないのだ、と教えられた。

 

廃棄物の貯蔵や汚染水の処理に関する対話は、主に国や東電と地元自治体(福島県、町村)と住民の間で行われる。大熊町や双葉町、富岡や浪江、楢葉や広野や南相馬とではそれぞれに事情が違うのだ。福島県内でも浜通りと仲通りでは認識は違うし、200キロ以上離れた東京ではさらに違う。廃炉や帰還の問題、汚染水の問題も地元住民や漁協との話し合いで進められるから、全国メディアの注目とはなりにくい。

2012年まで10数年間東電福島原発に務めた吉川氏は、過去の失敗の責任を受け入れつつも、廃炉と地域の復興のために発信、情報提供の仕事にあたっている。処理の終わったトリチウム水を海洋放出していいいのかどうかが今の最大の問題の一つであるという。トリチウム以外の核種は取り除けるのか、原発平常運転時も一定量放出されていたとはいえ、テラベクレル単位のトリチウムは海で希釈されるとはいえ、本当に安全といえるのか、そのあたりの議論は中央の政治の問題としてなかなか浮上してこない。 福島原発事故の現場で頑張る人たちに触れると、東京で東電=悪者とみなし、帰還困難地域解除を安易に批判することが、決して地元の人たちへのサポートにはなっていないことを、今回のツアーを通して感じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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