横浜逍遥亭さんに吉田秀和氏を扱った番組に関する小文をご紹介いただいて、ロングテールの一番シッポの先で細々と暮らしていた私のブログにかなり沢山の方が来訪されたようだ。 それだけ、吉田氏のファンが多いということか。 ともあれ駄文を読んでいただいた方には大いに感謝申し上げる。 今回のETV特集、そして同じインタビューを書き起こしたものが新潮社の「考える人」という雑誌に載ったようであるが、今回の吉田氏の小林秀雄の仕事に関する発言が、あちこちで話題になっている。 吉田氏は、小林の「モーツアルト」に衝撃を受け、いわば出発点だったはずだが、小林の仕事を本当は認めていないといった発言をしたではないかと。これについては、吉田氏も本意ではなかったのか、雑誌のほうでは、批判的ととれる発言は削除されているという。
小林秀雄という人は、20世紀の日本の生んだ天才の一人あったことは紛れもあるまい。 およそ、物を書くということ、己が精神や意識の働きを日本語で表現するという仕事に立ち向かった日本近代の文芸を語る上で、小林の達成した意識化のレベルの高さ、その格調と美しさの点で、それに続くものに一つ指標、もしくは乗り越えなければならない巨大な壁になっていたと思う。 例えば、中原中也にしても、小林の「中原中也の思い出」は、この短命だった詩人を、その文章の世界に中に、美しく永遠に固定したといえる。 中原は、小林や大岡昇平の言葉によってこそ、ここまで著名になったといえるのではないか。 「中原中也の思い出」は私も繰り返し読んだが,「思い出」を語るにして、これ以上完璧なものがあるとは思えないほどの透明性、簡潔で詩的な美しさを備えていると思う。 だが、吉田氏はそれには何か腑に落ちないところがあったに違いない。 中原という生身の人間を知っている吉田氏には、ここにはあまりに完璧な詩人像があると同時に、絶対に中原そのものではあり得ない抽象化(断定といってもいいかもしれない)があることを感じ、それに反発も覚えたのではないか。 吉田氏の「中原中也のこと」は、小林の「思い出」を意識せずにはあり得なかったし、なんとか「思い出」では表現し切れていない中原という人間を再生させようと努力している様子が、冒頭から最後までひしひしと感じられるのだ。 「動物園で白熊をじっと見ていたり」 「阿部六郎先生の下宿で赤ん坊のようにひっくり返って足をバタバタさせたり」 「自作の詩をバッハやチャイコフスキーの節に合わせて朗唱する」血が通ってこの世に生きていた詩人の姿が描かれなかったら、私達読者の中原への理解は、ずっと抽象的で取っ付きにくいものに終わっていたに違いない。 吉田氏の「中也のこと」は、小林の書いた「思い出」の見事な補遺、丁寧な解説となっているといえば失礼だろうか。
「モーツアルト」は言うまでもなく、読むものを呪縛するような魅惑に満ちている。 文章において時間と空間を駆け抜ける音楽を捉えるにおいて、それ以前にはこれほどのものは日本には生まれなかった。 だから、小林秀雄を迂回しては、日本の物書きは自立できなかったといわれている。 吉田氏が「モーツアルト」に魅了され、「模倣に近いまで行かないと」次に進めない体験と、かつて書いていたのは周知のことだ。 それは今も変わってはいまい。 だが、小林の行き方に吉田氏は疑問も感じた。 小林とは違った行き方で、吉田氏は文章を書き始めた。 それは、自分の思考の発展と、その途上での発見を忠実に一歩一歩記しながら、登坂していくといった試みであろうか。 読者は決して置いてきぼりは食わない。 吉田氏と共に理解を深めながら歩む。 その文章は対象に誠実であるとともに、同伴者にとっては優しさに満ちた、安心して身を委ねられる伴侶となる。
吉田氏が「中也のこと」を書いた時点では、吉田氏と小林の交流はまだ限られたものであった様に見受けられる。 それが、最近発表された「たとえ世の中が不条理に満ちていても」を読むと、後年、鎌倉で道を隔てたご近所同士となった両氏は、道端で挨拶を交わし、お互いを訪れては音楽を語ったりしてかなり親しくしていたことがわかる。 小林氏の最後の大仕事は「本居宣長」であったが、その長い連載が70年代終わりについに単行本になったとき、小林が「君、ついに出たよ」といって、吉田氏の自宅に本を届けたことが書いてある。 ただ、吉田氏は、とても残念でつらいことだが、「この本は私にはわかりません」と、後日小林宅で報告したというのだ。 なんという誠実、いや非情とも言える正直さであろうか。 小林の「本居宣長」を読んで源氏にも導かれ、「もののあはれ」とは何か知ったような気がしていた浅学の筆者には、吉田氏がこの本のどこが納得できなかったのかわからない。 小林のこの本は、それまでの「切った貼ったのような」「男性的」で「断定的な」小林の文法とは明らかに違う、慎重な歩みと柔らかさ、謙虚さがあると感じられるのだが、それでも吉田氏には違って読めたのだ。 おそらく宣長の原典に当たっている吉田氏なら違う風にアプローチしたのだろうか。 例えば、氏がセザンヌを描いたような形で。
小林秀雄については、無頼派の坂口安吾が「見え過ぎる眼で見ているが、鑑定人に成り下がっている」(「教祖の文学」)といったようなことを言い、「あの周到な小林が酔って駅のプラットフォームから落っこちたとは信じらぬ」と痛烈にやじっていたりするし、批評の世界で小林の後継者といわれた福田恒存が、「あんたというひとは何かと邪魔になる人だ」といった意味のことを言ったと、小林本人が当の坂口との対談で言っている。 小林と坂口、また師弟関係だった(?)大岡昇平が全く別の個性であったように、吉田氏と小林も感性と生きるスタイルが違っているということなのだろう。 小林が自己流の批評家などではあり得ないことは、未完に終わった「ドストエフスキーの生活」で真剣にこのロシアの大思想家、小説家に迫ったことでも明らかだし、20世紀の最も重要な哲学者の一人であるベルグソン論もやり、湯川秀樹といった全く分野の違う知性と正面からぶつかった興味深い対談を読めばその面白さは一目瞭然だ。 小林秀雄が、日本人が近代の散文でその知性と精神の働きを記すという試みにおいて代えがたい仕事を残したことは言うまでもない。 ただ、その見え過ぎる目、切れすぎる頭が他人のやっかみや嫉妬を買ったかもしれず、安吾が痛烈に批判したごとく、ややもすると生身の人間や現実から距離をおいた「鑑定人」然とした面があったかもしれぬ。
音楽を奏でる、聴くという経験は、元来文字ではなぞれないものだろうか。 バッハやモーツアルトの最高の音楽が鳴るとき、人は自然ともしくは宇宙と自分が一体化したり、その一部であると感じる。 「この世の中が不条理に満ちている」としても、バッハの平均律やカンタータ、モーツアルトの魔笛やレクイエムが与える感動は他に比べるものがなく、ベートーベンの最晩年のソナタや、トリスタンの巨大な前奏曲、スカルラッティの小さなソナタさえもが、音楽以外には与え得ない無類の感動と解放を与えてくれるし、その体験を意識化し、味わい、伝えること、これが吉田氏が書き続ける動機ではないだろうか。
小林秀雄という人は、20世紀の日本の生んだ天才の一人あったことは紛れもあるまい。 およそ、物を書くということ、己が精神や意識の働きを日本語で表現するという仕事に立ち向かった日本近代の文芸を語る上で、小林の達成した意識化のレベルの高さ、その格調と美しさの点で、それに続くものに一つ指標、もしくは乗り越えなければならない巨大な壁になっていたと思う。 例えば、中原中也にしても、小林の「中原中也の思い出」は、この短命だった詩人を、その文章の世界に中に、美しく永遠に固定したといえる。 中原は、小林や大岡昇平の言葉によってこそ、ここまで著名になったといえるのではないか。 「中原中也の思い出」は私も繰り返し読んだが,「思い出」を語るにして、これ以上完璧なものがあるとは思えないほどの透明性、簡潔で詩的な美しさを備えていると思う。 だが、吉田氏はそれには何か腑に落ちないところがあったに違いない。 中原という生身の人間を知っている吉田氏には、ここにはあまりに完璧な詩人像があると同時に、絶対に中原そのものではあり得ない抽象化(断定といってもいいかもしれない)があることを感じ、それに反発も覚えたのではないか。 吉田氏の「中原中也のこと」は、小林の「思い出」を意識せずにはあり得なかったし、なんとか「思い出」では表現し切れていない中原という人間を再生させようと努力している様子が、冒頭から最後までひしひしと感じられるのだ。 「動物園で白熊をじっと見ていたり」 「阿部六郎先生の下宿で赤ん坊のようにひっくり返って足をバタバタさせたり」 「自作の詩をバッハやチャイコフスキーの節に合わせて朗唱する」血が通ってこの世に生きていた詩人の姿が描かれなかったら、私達読者の中原への理解は、ずっと抽象的で取っ付きにくいものに終わっていたに違いない。 吉田氏の「中也のこと」は、小林の書いた「思い出」の見事な補遺、丁寧な解説となっているといえば失礼だろうか。
「モーツアルト」は言うまでもなく、読むものを呪縛するような魅惑に満ちている。 文章において時間と空間を駆け抜ける音楽を捉えるにおいて、それ以前にはこれほどのものは日本には生まれなかった。 だから、小林秀雄を迂回しては、日本の物書きは自立できなかったといわれている。 吉田氏が「モーツアルト」に魅了され、「模倣に近いまで行かないと」次に進めない体験と、かつて書いていたのは周知のことだ。 それは今も変わってはいまい。 だが、小林の行き方に吉田氏は疑問も感じた。 小林とは違った行き方で、吉田氏は文章を書き始めた。 それは、自分の思考の発展と、その途上での発見を忠実に一歩一歩記しながら、登坂していくといった試みであろうか。 読者は決して置いてきぼりは食わない。 吉田氏と共に理解を深めながら歩む。 その文章は対象に誠実であるとともに、同伴者にとっては優しさに満ちた、安心して身を委ねられる伴侶となる。
吉田氏が「中也のこと」を書いた時点では、吉田氏と小林の交流はまだ限られたものであった様に見受けられる。 それが、最近発表された「たとえ世の中が不条理に満ちていても」を読むと、後年、鎌倉で道を隔てたご近所同士となった両氏は、道端で挨拶を交わし、お互いを訪れては音楽を語ったりしてかなり親しくしていたことがわかる。 小林氏の最後の大仕事は「本居宣長」であったが、その長い連載が70年代終わりについに単行本になったとき、小林が「君、ついに出たよ」といって、吉田氏の自宅に本を届けたことが書いてある。 ただ、吉田氏は、とても残念でつらいことだが、「この本は私にはわかりません」と、後日小林宅で報告したというのだ。 なんという誠実、いや非情とも言える正直さであろうか。 小林の「本居宣長」を読んで源氏にも導かれ、「もののあはれ」とは何か知ったような気がしていた浅学の筆者には、吉田氏がこの本のどこが納得できなかったのかわからない。 小林のこの本は、それまでの「切った貼ったのような」「男性的」で「断定的な」小林の文法とは明らかに違う、慎重な歩みと柔らかさ、謙虚さがあると感じられるのだが、それでも吉田氏には違って読めたのだ。 おそらく宣長の原典に当たっている吉田氏なら違う風にアプローチしたのだろうか。 例えば、氏がセザンヌを描いたような形で。
小林秀雄については、無頼派の坂口安吾が「見え過ぎる眼で見ているが、鑑定人に成り下がっている」(「教祖の文学」)といったようなことを言い、「あの周到な小林が酔って駅のプラットフォームから落っこちたとは信じらぬ」と痛烈にやじっていたりするし、批評の世界で小林の後継者といわれた福田恒存が、「あんたというひとは何かと邪魔になる人だ」といった意味のことを言ったと、小林本人が当の坂口との対談で言っている。 小林と坂口、また師弟関係だった(?)大岡昇平が全く別の個性であったように、吉田氏と小林も感性と生きるスタイルが違っているということなのだろう。 小林が自己流の批評家などではあり得ないことは、未完に終わった「ドストエフスキーの生活」で真剣にこのロシアの大思想家、小説家に迫ったことでも明らかだし、20世紀の最も重要な哲学者の一人であるベルグソン論もやり、湯川秀樹といった全く分野の違う知性と正面からぶつかった興味深い対談を読めばその面白さは一目瞭然だ。 小林秀雄が、日本人が近代の散文でその知性と精神の働きを記すという試みにおいて代えがたい仕事を残したことは言うまでもない。 ただ、その見え過ぎる目、切れすぎる頭が他人のやっかみや嫉妬を買ったかもしれず、安吾が痛烈に批判したごとく、ややもすると生身の人間や現実から距離をおいた「鑑定人」然とした面があったかもしれぬ。
音楽を奏でる、聴くという経験は、元来文字ではなぞれないものだろうか。 バッハやモーツアルトの最高の音楽が鳴るとき、人は自然ともしくは宇宙と自分が一体化したり、その一部であると感じる。 「この世の中が不条理に満ちている」としても、バッハの平均律やカンタータ、モーツアルトの魔笛やレクイエムが与える感動は他に比べるものがなく、ベートーベンの最晩年のソナタや、トリスタンの巨大な前奏曲、スカルラッティの小さなソナタさえもが、音楽以外には与え得ない無類の感動と解放を与えてくれるし、その体験を意識化し、味わい、伝えること、これが吉田氏が書き続ける動機ではないだろうか。