アダム・スミス以来の古典派経済学は、1970年代にミルトンフリードマンのサプライサイドの理論を得て、金利の操作を多少加えることで基本は市場に任せておけば、多少の浮沈はあっても株式市場は均衡に向かい経済は反映する、という市場原理主義を蔓延させてきた。この誤解が、市場のグローバル化や、ITやインターネットによるコストダウンと情報革命によって市場が未曾有の好況を維持し続けたことで増幅されてしまった。米国住宅バブルの崩壊を引き金に、今や誰にも実態の分からないCDSなどのディリバティブの膨張で、世界の金融経済は破裂寸前にある、とうのがソロスの警告だ。
しかしソロス自身は、むしろ自分の哲学を初めて本格的に語った本として、本書を世に問ったと思え、読み返してみると難解な第3章や第4章に独創的な思想が散りばめられている。「啓蒙主義の誤謬」や市場の「均衡理論」の誤りと、それに代わるパラダイムの一つとしての「再帰性」(英語ではReflexivityとなっており、「反映性」とでも訳したほうが意味が近いとも思えるが)の理論がそれだ。
ソロスは主張する。市場原理主義は間違っている、なぜならそれは、最終的に市場を客観的に止まった「対象」としてみる理性の「認知機能」でしか捉えていないからだ、と。実際の市場は、常にバイアスがあり、投資家の行動や中央銀行の金利操作が、投資家の期待を常に変化させ、バブルやバーストを引き起こす。つまり、現実に対して「操作機能」が働くという期待があり、それがさらに不確実性を増幅して、相場を変え、投資家の行動も変えるフィードバック(再帰性)が働くというのだ。この「再帰性」の理論は、本来単純のようであるが、本書の記述はやや晦渋だ。ソロスが哲学的命題も持ち出しているから混乱する。
では、素朴な疑問として、ソロスはなぜこれまで相場を出し抜いて巨万の富を得て成功できたのか。要は、市場心理や相場のメカニズムをより「真実」に照らして理解し、より理性的に「認知機能」を最大限働かせたからではないのか。相場がさらに下落すると思えば、「空売り」を仕掛け、落ちきったところだ買い戻して儲け、逆に株価上昇バブルを見越して買い進め、その破裂寸前に売り抜けていたからではないのか。単純化を怖れずにいえば、それを彼が「再帰性」という難しい言葉を使って表現していることではないのか。
しかし、そのソロスも、現在のあまりに複雑になった金融取引の前には、自己の無力を多分感じているのだ。「再帰性」は、現実認識と現実が互いにフィードバックし合って、現実そのものを変えていくプロセスのことだ。「君は僕の敵だ」といってみても、「君」の行動次第で、敵にも味方にもなると彼も言っている(p.80)。相場もそれと同じということか。
第7章では、ソロスは「2008年はどうなるか」という章で、年頭からの自身の投資行動を日記風に紹介している。アメリカ売り、中国・インド買いの基本ポジションで年初に儲けた彼も、ベアースタンダードが破綻した3月頃には、損をしている。 CDSのような合成証券商品は余りに危険で読めないと批判しているし、当局が規制を強めるべきだと指摘している。要は、ソロスのようなプロでも、市場は読めなくなったということか。本書は、そのような混沌とした市場とは付き合いきれない、と白状しているようにも思える。一方で、サブプライムローンの本当の地獄はこれからで、家を取り上げられ路頭に迷う人が沢山出るから、彼のNYの財団はそうした人達を援助しているという。 こんな金融は最早受け入れられないと、彼の啓蒙主義的理性が叫んでいるのだ。
この本の中で、もっとも印象的だった箇所の一つは、NYタイムズマガジンに寄稿したあるジャーナリストが、ブッシュの側近(カール・ローブだといわれる)が、「アメリカは帝国なんだから、我々が行動を起こせば現実はそこで変化する。我々は歴史の主体であり、君達ジャーナリストや学者は、我々の行動を研究するだけなのだ」と語ったというくだりだ(P94)。政治は現実を操作する誘惑に駆られる。それがウソで固めたイラク戦争や不毛な「テロとの戦い」を生んでしまった。ソロスは言う。「現実は厳しく、真実を操作すれば、いずれ自ら傷つく。たとえどれほどの権力があろうとも、自分の意志を一方的に世界に押し付けることはできない。まず、世界がどのような仕組みで動いているかを学ばなければならないのだ。完全な知識は人の手に届くものではない。だが、可能な限りそれに接近しようとする努力は放棄してはならない。」「ブッシュ政権の愚行から、「開かれた社会」こそが優れた社会なのだという信念を、我々は更に強化すべきなのである(P.95)」
哲学者になり損ねたソロスのメッセージがここにある。これこそ、ソロスという相場師が、哲学や政治にまで踏み込んで言及し続ける理由がある。彼の信念によれば、アメリカの金融資本主義は余りに行き過ぎた。ドルを刷って、世界中から金を借りまくって作り上げた虚構の繁栄は終わりを告げるべきときが来た、ということだ。そして、現実はその通りになりつつある。
しかしソロス自身は、むしろ自分の哲学を初めて本格的に語った本として、本書を世に問ったと思え、読み返してみると難解な第3章や第4章に独創的な思想が散りばめられている。「啓蒙主義の誤謬」や市場の「均衡理論」の誤りと、それに代わるパラダイムの一つとしての「再帰性」(英語ではReflexivityとなっており、「反映性」とでも訳したほうが意味が近いとも思えるが)の理論がそれだ。
ソロスは主張する。市場原理主義は間違っている、なぜならそれは、最終的に市場を客観的に止まった「対象」としてみる理性の「認知機能」でしか捉えていないからだ、と。実際の市場は、常にバイアスがあり、投資家の行動や中央銀行の金利操作が、投資家の期待を常に変化させ、バブルやバーストを引き起こす。つまり、現実に対して「操作機能」が働くという期待があり、それがさらに不確実性を増幅して、相場を変え、投資家の行動も変えるフィードバック(再帰性)が働くというのだ。この「再帰性」の理論は、本来単純のようであるが、本書の記述はやや晦渋だ。ソロスが哲学的命題も持ち出しているから混乱する。
では、素朴な疑問として、ソロスはなぜこれまで相場を出し抜いて巨万の富を得て成功できたのか。要は、市場心理や相場のメカニズムをより「真実」に照らして理解し、より理性的に「認知機能」を最大限働かせたからではないのか。相場がさらに下落すると思えば、「空売り」を仕掛け、落ちきったところだ買い戻して儲け、逆に株価上昇バブルを見越して買い進め、その破裂寸前に売り抜けていたからではないのか。単純化を怖れずにいえば、それを彼が「再帰性」という難しい言葉を使って表現していることではないのか。
しかし、そのソロスも、現在のあまりに複雑になった金融取引の前には、自己の無力を多分感じているのだ。「再帰性」は、現実認識と現実が互いにフィードバックし合って、現実そのものを変えていくプロセスのことだ。「君は僕の敵だ」といってみても、「君」の行動次第で、敵にも味方にもなると彼も言っている(p.80)。相場もそれと同じということか。
第7章では、ソロスは「2008年はどうなるか」という章で、年頭からの自身の投資行動を日記風に紹介している。アメリカ売り、中国・インド買いの基本ポジションで年初に儲けた彼も、ベアースタンダードが破綻した3月頃には、損をしている。 CDSのような合成証券商品は余りに危険で読めないと批判しているし、当局が規制を強めるべきだと指摘している。要は、ソロスのようなプロでも、市場は読めなくなったということか。本書は、そのような混沌とした市場とは付き合いきれない、と白状しているようにも思える。一方で、サブプライムローンの本当の地獄はこれからで、家を取り上げられ路頭に迷う人が沢山出るから、彼のNYの財団はそうした人達を援助しているという。 こんな金融は最早受け入れられないと、彼の啓蒙主義的理性が叫んでいるのだ。
この本の中で、もっとも印象的だった箇所の一つは、NYタイムズマガジンに寄稿したあるジャーナリストが、ブッシュの側近(カール・ローブだといわれる)が、「アメリカは帝国なんだから、我々が行動を起こせば現実はそこで変化する。我々は歴史の主体であり、君達ジャーナリストや学者は、我々の行動を研究するだけなのだ」と語ったというくだりだ(P94)。政治は現実を操作する誘惑に駆られる。それがウソで固めたイラク戦争や不毛な「テロとの戦い」を生んでしまった。ソロスは言う。「現実は厳しく、真実を操作すれば、いずれ自ら傷つく。たとえどれほどの権力があろうとも、自分の意志を一方的に世界に押し付けることはできない。まず、世界がどのような仕組みで動いているかを学ばなければならないのだ。完全な知識は人の手に届くものではない。だが、可能な限りそれに接近しようとする努力は放棄してはならない。」「ブッシュ政権の愚行から、「開かれた社会」こそが優れた社会なのだという信念を、我々は更に強化すべきなのである(P.95)」
哲学者になり損ねたソロスのメッセージがここにある。これこそ、ソロスという相場師が、哲学や政治にまで踏み込んで言及し続ける理由がある。彼の信念によれば、アメリカの金融資本主義は余りに行き過ぎた。ドルを刷って、世界中から金を借りまくって作り上げた虚構の繁栄は終わりを告げるべきときが来た、ということだ。そして、現実はその通りになりつつある。