震災後、3月後半から石巻に何千人ものボランティアを送り込んでいるピースポート(PB)は、石巻専修大学やPBが独自に調達した宿舎(今回は新館地区にあるカスカファッション)に拠点を構え、長期に渡って被災者の支援に当たっている。ボランティアは、当初はテントに、現在はこれらの拠点に寝泊りしながら、住民の要請に応じて民家の泥だしなどの清掃作業にあたる。
初めて見る石巻だが、震災から3ヶ月近くたち、商店やガソリンスタンド、クルマのディーラーなど生活基盤を支えるインフラはかなり復旧しており、道路の清掃は済んでクルマは問題なく通れる。 一方で、まだ至る所で津波によって破壊された民家や瓦礫が放置されており、一階が天井まで浸水した民家は、壊れたまま放置されているものや、家主が戻ってきて二階に住みながら清掃を続けている家屋などが混在している。 昼間は家の様子を見に来ても、人通りが絶える夜は近くの親戚宅などに引き上げる人もあり、個人の生活の再建は未だこれからという感じだ。
先週末、2泊3日の短期で派遣されたボランティアは約100人。 7泊8日の定期派遣組と合わせて6台のバスが、金曜の夜10時に新宿中央公園を出発し石巻に向かった。 10日前のオリエンテーションで6人ずつの班に編成され、チームリーダー(TL) 、サブリーダーも決めてある。 参加者の半数が20代、それが30代、40代と上に行くに連れて比率は減るが、特に短期派遣は女性が約半数というのは驚きだった。 私たちの班は合計7名。 19歳の女子大生から50代の男性までと年齢層は広く、TLは32歳の会社員の男性。女性は3名だった。
最初のトイレ休憩を佐野SAで11時過ぎにとり、ここで急に空腹を覚えラーメンを食べる。 次のトイレ休憩は午前2時頃、福島の安達太良SA。 このあたりは放射能値が高いだろうか、などと想像する。午前4時頃には東北道を降り、片側一車線の有料道路に入る。そして4時半頃、道の駅がある大きな駐車場に到着。 これから2時間ほど、朝6時の出発時間まで待機となる。 外はもう明るくなってきている。
6時にいよいよ石巻へ向け出発。 石巻の近くで三陸道に入るまで、田園風景の中の農道や山間部を走る。これは渋滞回避のためだろうか。 そして土曜の朝7時過ぎに、石巻の新館地区のPB拠点のカスカファッション到着したのは2台のバス(他のバスは他の拠点に向かった。)天気は曇り。 霧のような湿気があたりを包む。 手リレーでバスの荷室から全員の荷物を次々に屋内に運び込む。 持参したコンビ二おにぎりで朝食を済ませ、作業着に着替える。全体ミーティングを行い、PBの常駐スタッフからの挨拶、LL(Leader of Leaders)の紹介などがあり、各班にその日の作業内容と地図が手渡される。 わが3-2班は、自転車に乗って1キロほど行った住宅街(浦屋敷地区)のCさん宅が仕事場となった。
途中、クルマが突っ込んだままの建物(ラブホテルと判明)や、石巻中部自動車教習所、つぶれたままの巨大なビニールハウスなどを左右に見ながら、一キロほどの移動である。(作業を行った浦屋敷地区は、震災前は閑静な住宅街であったこと、石巻港からは意外にも1キロくらいしか離れていないことが、あとでgoogle earthで調べてわかった。)
70歳過ぎというCさん宅の奥さんは、津波が一階の天井まできたためずっと避難所暮らしだったが、風邪が蔓延し血圧が200を越えるほど高くなったため、5月の連休中に電気が復旧したタイミングで自宅に戻ったそうだ。 他にライフラインは、水道は出るがガスはだめ。 一階の家の中の泥だしは終わっているので、かなりの広さの庭を覆った泥を出し、台所とお風呂場の清掃というのが、わが班の役目となった。 初日の作業は、大男揃いの東京の英会話学校の外人教師チームと合同で行った。
作業は、スコップや鍬で硫黄のような匂いのする表面のヘドロを取り除き、10~20cm近く泥を掘り起こして土嚢に詰める。その繰り返しだ。大体男性が掘り、女性が泥を土嚢でうけて口を縛る。 一輪車で土嚢を運び、側溝の傍にどんどん積み上がる。 全員気合が入っており、反対方向から作業を始めた二班の競争みたいな気分もあって、息を切らしながらの作業はかなりきついものだった。
海水で枯れてしまった庭木がスコップの行く手を邪魔するが、鋸はPBにも備えがなかったため、道向かいの家屋で作業をしていた宮城のボランティアチームから私が鋸を借りてきて、次々に伐採していった。こんなところで、故郷での山仕事の経験が役に立つとは思わなかった(「大福姫」とチームが綽名した女性から、「木こりみたい」と賛辞?を受けた。) 途中、昼休みはPBの拠点に自転車で戻り、一時間の昼食タイムをはさんで、午後4時半まで作業を行った。
汗だくになって5時ごろ宿舎に戻ると、まずブーツを高圧水で洗浄し、泥を取り除く。 この日、自分たちの班は、外に設置された10個ほどの仮設トイレの掃除当番を割り当てられた。これをせっせとこなし30分ほどでピカピカに磨き上げた。
宿舎ではもちろん風呂はない。汚れた作業着を脱ぎ、体を拭いて夕食の支度となる。幸い、わが班には、アウトドア好きの中年オヤジOさんがおり、私とOさんが事前に炊事道具を持参することにしていたので、ガスバーナーと鍋が2セットあって、これで無洗米を炊き、味噌汁やラーメン用のお湯もたっぷり沸かして、チーム全員でワイワイ話しながら温かいご飯を食べることができた。 食後はお茶で一服。さらに、翌日の朝食用に5合のご飯を炊き、おにぎりを一人2個ずつ分作った。 高校の料理部で部長をやっていたという女子大生Kさんが形のよいお結びを幾つも握った。夜は10時に消灯。山小屋の時間帯に近い。疲労のためにあまり眠れないかと危惧したが、思った以上に眠れた。
翌朝は7時半にみんなで朝食。 お湯を沸かして昨夜のおにぎりと温かい味噌汁をいただく。 8時15分、前庭に全員集合しラジオ体操第一。 100人ほどがラジオ体操の音楽に合わせて手足を伸ばし、今日一日の作業に向けてウオームアップをしたこの時、なぜか言い知れぬ幸福感に満たされた。 天気は今日も薄曇りだが、昨日よりは雲は薄く、少し暑くなりそうな予感がする。
現場も作業も昨日と同じ。庭はまだヘドロが取り除かれていない部分が三分の一くらいある。 昨日の外人部隊は、もっとキツイ作業がいいと配置換えを申請したとかで、今日はわが班だけでの作業となる。 前日の疲れや筋肉痛のせいか、みな昨日ほどペースが上がらない。 やはり力仕事を普段どれほどやっているかによるのだろう。 私も相当へばっていて、シャベルでヘドロを1m3四方ほど取り除くと、息が上がり小休止せざるをえない。高度3000mの北アルプスの登攀のようだ。
午前中で終わるかと思えた庭も、まだ所々やり残しがあり、また台所と風呂場の清掃も、という家主の希望もあって、結局午後もこのお宅で作業を継続することになる。 半数以上のボランティアが翌朝のバスではなく、今日中に東京に自己手配で戻ることもあり、午後は3時半には作業を終えた。 竹箒で掃いて仕上げた庭は、塩分を中和するため石灰をまき、白く雪化粧をしたようである。ここに、また花が咲くような日がくるのだろうか。
台所の床下の泥の撤去と清掃、風呂場の掃除は、主に女性二人ずつが担当したが、風呂の排水溝は水が流れずに、これもかなりきつい作業だったようだ。 最後に、奥さんと一緒にみんなで記念写真をとる。別れ際には、涙ぐまれて感謝されこちらも一瞬胸が熱くなる。
わずか2日間であったが、私を含めた年配の男性2名、3人の女性、TLのNさんと大学生のサブリーダーのT君、チーム7人全員が充実感に満たされていた。 私にとっても始めての被災地、初めてのボランティアで、忘れがたい体験となった。
宿舎に戻り、汗を拭き着替えて帰り支度に入る。午後4時半ごろ簡単な解団式。 PBのリーダーから感謝の言葉があり、全員が南の海の方角を向いて黙祷をささげた。 このあと、カスカファッションからPBのバスで石巻駅まで送ってもらう。 大福姫があやうくバスに乗り遅れそうになる。 石巻駅の周辺は、波があまり高くなかったようで、建物の被害は少ない。道路沿いのクルマのディーラーも、ほとんどがきれいになって営業を行っている。
5時の仙台行きバスは、私たちボアンティアで埋まってしまった。席で隣あわせになった60近い男性は、これで被災地ボランティア4回目だという。 最初がGW中にPBの定期ボランティア。その後、社会福祉協議会で陸前高田と名取市にいったという。 「禁酒するにはいいですよ、でもこのあと仙台駅で夜行バスを待つ間、私は飲んじゃいますが」とその人は笑った。
約1時間半で仙台駅にバスは到着。 女子大生Kさんは、節約のため23時の夜行バスで帰るという。 終始、丹念に効率的な作業を行っていた女性Sさんは、すでに8時過ぎの新幹線の切符を買っているというので、TLのNさん、アウトドアオヤジのOさん、大福姫と私が、ボランティア割引の自由席(5,000円)で一緒に8時前の新幹線に乗った。 車中では、ビールで乾杯しながらワイワイやったものだから、周りの乗客には少しひんしゅくだったかも知れぬ。 30過ぎの忙しい会社員でありながら、TLの役割を淡々とこなしてくれたNさんは私と同郷だとわかって、また一層身近に感じた。
10時ごろ、東京駅着。 思ったより早い列車に乗れたため、12時を過ぎることなく帰宅できそうである。半蔵門線は混んでいるかと思い、京浜東北線から東急大井町線、田園都市線を乗り継いで、11時半過ぎに帰宅できた。
リーダーのNさんは翌日仕事、女子大生のKさんは、午後ゼミの発表といっていたが、私は予定どおり休みを取った。ときには頭を使う仕事を離れ、ひたすら体を動かすことの有意義さを感じた2日間であった。 また、初めて知り合った人と友達になれる場でもある。 PBは、今回の震災ボランティア団体としては、最も大規模に継続的に活動を行っているだけあって、事前のオリエンテーションもしっかりしており、真剣かつプロフェショナルである。 No Nonsense. Get the job doneという風だ。 作業用の装備、寝具、食料、ゴミの持ち帰りなど基本的に自己調達で、慣れない参加者には負担ではあるが、それも現地で迷惑を一切かけないためだ。
(装備はヘルメット、防塵ゴーグル、ゴム手および革手袋、長靴の金属製中敷などはPBが現地で用意。 安全長靴、防塵マスク(排気弁つきを推奨)、防水ヤッケなどは自己調達。防塵ゴーグルは結構汚れているので、持って行ったしたほうがよさそう。防塵マスクは2枚で1000円。ゴーグルは100円くらいで売っている。私は使わなかったがゴム手は使用済みのものは匂いがすごいので、使う場合は持参がベター。今回水場の仕事はしなかったので、革手を借りた。PBボランティア募集の詳細はこちら。 )
被災地では、個人の生活の復旧はまだこれからのようである。今回お邪魔した地区でも、行政はその一体を工業団地にするといっているとかで、家の立替や修復への援助は何も決まっておらず、住民の方は戸惑っておられた。
一軒のお宅をきれいにするにも、数人がかりで1~2日かかる。そんな支援を待っている方が、石巻だけで何千世帯とあるという。 一人にできることはわずかだが、個々の被災者に接することが被災地を理解する原点であると感じる。 その個人が何十、何百と積み重なって地域や社会が構成される。行政や大きな企業で仕事をしていると、いつも大きな単位を相手にするために、一人ひとりの現実に想像力が及びにくくなる。 原発事故の問題もそうだが、それが責任を取ることを回避したり、隠蔽したりする行為を生む原因になる。 一人の被災者の現実と向き合うことで、個人のうちに共感が生まれ、人と人の「絆」が形成される。
被災地にはかけがいのない家族や住む場所を失った人が大勢いる。 東京にいて直接被災しなかった私たちもしかし、いつ同じような天災や事故で日常を破壊され、愛する人たちと別離しないとも限らない。命あるものとして不可避な「死」は、いつ訪れるともわからない。 そうしたことに思いを馳せ、その事実と向き合いながら、限られた生を、日常を生きていくことに、人生の喜びと生命の尊厳があるということに気づかされる。 他人の苦しみに思いを馳せ、同情の念を呼び起こすことが人を謙虚にし、自分も他人も同じように大切に思いやることができる。 日本人はそのことを今回の震災で認識したと思う。それをどういう形で、現実を変え、社会を変えていく力にしていくか、それが問われている。
震災から3ヵ月が経つが、復興への道のりはまだ遠そうだ。また機会を見て、PBかその他のボランティアに参加したいと思う。