『裁きは終りぬ』(アンドレ・カイヤット監督、1950年)を観た。
農作業で忙しい最中のマラングレのところに、裁判所から陪審員としての出頭命令がくる。
古美術商のミクラン夫人は、陪審員としての要請でホテルにやって来る。
カフェのボーイのフェリクスも呼ばれる。
そのように集められた20名の陪審員候補の中から7名が選ばれる。
事件の被告の医学博士エルザは、薬学研究所でボードレモンの補佐をしていたが、彼が病気のため事実上の所長になっていた。
そして、エルザとボードレモンは愛人関係にあり、そのボードレモンは呼吸器癌のために回復の見込みがない。
ボードレモンは主治医に安楽死を願うが、拒否されたためエルザにそれを託す・・・
フランスの陪審員制度による安楽死事件である。
ここでは、法廷での公判と並行しながら、陪審員の個々の家庭の事情やそれぞれの問題が描かれる。
退役軍人のアンドリューは、娘の結婚のこと。
印刷工のフラヴィエの家庭は、息子が精神を病んでいる。
タイル製品商人のコドロンは、同じ陪審員のミクラン夫人に気がある。
そして、身分が高い馬主のモンテソンには、この裁判所まで女が執拗に訪ねて来て会いたがっている。
被告のエルザとボードレモンの関係は、愛人関係と言っても、カトリック教徒のボードレモンの親が、
無宗教でリトアニア人のエルザに反対のために一緒になれなかったという事情がある。
そればかりかボードレモンの遺言は、全財産をエルザに渡すという内容になっていたということが事件の核心になる。
裁判は進む。
ボードレモンの妹のニコルが衝撃的な事実を証言する。
被告には、他に愛人がいると。
兄が死ぬ前日に、ベルサイユの帰り道で二人がいるのを目撃したと。
その愛人クレメールが呼ばれて証言する。
エルザと私は一緒に暮らせる自由もあったが、エルザには、ボードレモンが知らないうちに安楽死させるという約束を持っていた。
だから、ボードレモンの苦悩を終わらせるために、自らの自由を犠牲にしたと。
この事件は、「被害者の苦しみを取り除くための約束を果たすため」か、
それとも「愛が冷めたための遺産目当ての犯行」か、が焦点になる。
要は、問題点として、
被告が被害者を故意に死なせたのは有罪か?
この犯罪は、計画的になされたのか?
有罪だとした場合、被告への情状酌量の余地はあるのか?
7名の陪審員は、評決を出す。
しかし、監督のカイヤットは問う。
陪審員は、そもそも生まれ、環境等によって物の考え方も個々に違い、“私情”が評決に大きな影響を及ぼすのではないか。
だから、彼らだって誤りを犯すかもしれないではないか。
その可能性があるにも関わらず、有罪判決をした場合に、それは許されるのか。
果たして、そもそも“人が他人を裁くことは本当にできるのか”
この作品は、元弁護士でもあったカイヤットの代表作でもあり、法廷サスペンスとしてその切れ込みは鋭く重い。
法廷ものとしては、すぐに『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督、1957年)を思い浮かべるが、その趣向の違いによってどちらも甲乙付けがたい内容である。
農作業で忙しい最中のマラングレのところに、裁判所から陪審員としての出頭命令がくる。
古美術商のミクラン夫人は、陪審員としての要請でホテルにやって来る。
カフェのボーイのフェリクスも呼ばれる。
そのように集められた20名の陪審員候補の中から7名が選ばれる。
事件の被告の医学博士エルザは、薬学研究所でボードレモンの補佐をしていたが、彼が病気のため事実上の所長になっていた。
そして、エルザとボードレモンは愛人関係にあり、そのボードレモンは呼吸器癌のために回復の見込みがない。
ボードレモンは主治医に安楽死を願うが、拒否されたためエルザにそれを託す・・・
フランスの陪審員制度による安楽死事件である。
ここでは、法廷での公判と並行しながら、陪審員の個々の家庭の事情やそれぞれの問題が描かれる。
退役軍人のアンドリューは、娘の結婚のこと。
印刷工のフラヴィエの家庭は、息子が精神を病んでいる。
タイル製品商人のコドロンは、同じ陪審員のミクラン夫人に気がある。
そして、身分が高い馬主のモンテソンには、この裁判所まで女が執拗に訪ねて来て会いたがっている。
被告のエルザとボードレモンの関係は、愛人関係と言っても、カトリック教徒のボードレモンの親が、
無宗教でリトアニア人のエルザに反対のために一緒になれなかったという事情がある。
そればかりかボードレモンの遺言は、全財産をエルザに渡すという内容になっていたということが事件の核心になる。
裁判は進む。
ボードレモンの妹のニコルが衝撃的な事実を証言する。
被告には、他に愛人がいると。
兄が死ぬ前日に、ベルサイユの帰り道で二人がいるのを目撃したと。
その愛人クレメールが呼ばれて証言する。
エルザと私は一緒に暮らせる自由もあったが、エルザには、ボードレモンが知らないうちに安楽死させるという約束を持っていた。
だから、ボードレモンの苦悩を終わらせるために、自らの自由を犠牲にしたと。
この事件は、「被害者の苦しみを取り除くための約束を果たすため」か、
それとも「愛が冷めたための遺産目当ての犯行」か、が焦点になる。
要は、問題点として、
被告が被害者を故意に死なせたのは有罪か?
この犯罪は、計画的になされたのか?
有罪だとした場合、被告への情状酌量の余地はあるのか?
7名の陪審員は、評決を出す。
しかし、監督のカイヤットは問う。
陪審員は、そもそも生まれ、環境等によって物の考え方も個々に違い、“私情”が評決に大きな影響を及ぼすのではないか。
だから、彼らだって誤りを犯すかもしれないではないか。
その可能性があるにも関わらず、有罪判決をした場合に、それは許されるのか。
果たして、そもそも“人が他人を裁くことは本当にできるのか”
この作品は、元弁護士でもあったカイヤットの代表作でもあり、法廷サスペンスとしてその切れ込みは鋭く重い。
法廷ものとしては、すぐに『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督、1957年)を思い浮かべるが、その趣向の違いによってどちらも甲乙付けがたい内容である。