一連の傑作揃いのケン・ローチ作品の中でも、特に強烈な印象を受けた『レディバード・レディバード』(1994年)を再度観てみた。
生活のためバーで歌っているマギーの店にスペイン系のジョージが訪れ、彼はマギーの魅力に惹かれる。
ジョージは弱者の権利を守ろうとし、そのために母国パラグアイから亡命した。
そんなジョージにマギーは次第に心を開き、愛する子供たちと離ればなれになったいきさつを話し始める。
マギーは、父親がそれぞれ違う四人の子供と貧しいながらも幸せに暮らしていた。
だが、次の新しい夫サイモンによる暴力に耐えかねて友人の家近くに隠れ住んだが、たまたま留守の時に火事が起き、長男のショーンが重傷を追ってしまった。
これがきっかけとなりマギーは養育能力なしと判決を受けて、今は子供たちと引き離されて住んでいる。
マギーは、ジョージの親身な優しさに心もほぐれ、同居し身籠る。
しかし娘ゾエが生まれると、社会福祉局は彼女の元に赤ん坊を置いておくのは危険と判定し、ゾエをマギーから奪っていった・・・
イギリスは、1989年に「児童法」が制定されて子どもの保護強化がされたという。
そして“子の福祉”を最優先とし“親の責任問題”の名の元で、行政が子どもの保護と親子関係への過度の介入がされてくる。
そのことをケン・ローチは事実の話として映像化する。
マギーは子に安定的な環境を与えられなく、何度も同伴者を変えて子らを暴力の危険にさらした、と判断されるわけである。
そして社会福祉局からの援助も拒否して改善の意思がない、と糾弾される。
裁判は、マギーによる子への面会を禁止し、社会福祉局の養育権を認めたうえで養子縁組を目的とする里親探しを命ずる。
このことによって、マギーは子どものいる家庭を作ろうとしても完全に国から拒否される。
国はいいこと、正しいことを机上論として行っているつもりであっても、個人としての子どもを奪われた親の悲しみや、怒り、絶望は考えない。
体制としての権力とひ弱な個人の在り方についての矛盾を、この作品は鋭く突く。
生活のためバーで歌っているマギーの店にスペイン系のジョージが訪れ、彼はマギーの魅力に惹かれる。
ジョージは弱者の権利を守ろうとし、そのために母国パラグアイから亡命した。
そんなジョージにマギーは次第に心を開き、愛する子供たちと離ればなれになったいきさつを話し始める。
マギーは、父親がそれぞれ違う四人の子供と貧しいながらも幸せに暮らしていた。
だが、次の新しい夫サイモンによる暴力に耐えかねて友人の家近くに隠れ住んだが、たまたま留守の時に火事が起き、長男のショーンが重傷を追ってしまった。
これがきっかけとなりマギーは養育能力なしと判決を受けて、今は子供たちと引き離されて住んでいる。
マギーは、ジョージの親身な優しさに心もほぐれ、同居し身籠る。
しかし娘ゾエが生まれると、社会福祉局は彼女の元に赤ん坊を置いておくのは危険と判定し、ゾエをマギーから奪っていった・・・
イギリスは、1989年に「児童法」が制定されて子どもの保護強化がされたという。
そして“子の福祉”を最優先とし“親の責任問題”の名の元で、行政が子どもの保護と親子関係への過度の介入がされてくる。
そのことをケン・ローチは事実の話として映像化する。
マギーは子に安定的な環境を与えられなく、何度も同伴者を変えて子らを暴力の危険にさらした、と判断されるわけである。
そして社会福祉局からの援助も拒否して改善の意思がない、と糾弾される。
裁判は、マギーによる子への面会を禁止し、社会福祉局の養育権を認めたうえで養子縁組を目的とする里親探しを命ずる。
このことによって、マギーは子どものいる家庭を作ろうとしても完全に国から拒否される。
国はいいこと、正しいことを机上論として行っているつもりであっても、個人としての子どもを奪われた親の悲しみや、怒り、絶望は考えない。
体制としての権力とひ弱な個人の在り方についての矛盾を、この作品は鋭く突く。