ウクライナの作品『ザ・トライブ』(ミロスラヴ・スラボシュピツキー監督、2014年)を観た。
ろうあ者の寄宿学校に入学したセルゲイ。
そこでは犯罪や売春などを行う悪の組織=族(トライブ)によるヒエラルキーが形成されており、入学早々彼らの洗礼を受ける。
何回かの犯罪に関わりながら、組織の中で徐々に頭角を現していったセルゲイは、
リーダーの愛人で、イタリア行きのために売春でお金を貯めているアナを好きになってしまう。
アナと関係を持つうちにアナを自分だけのものにしたくなったセルゲイは、組織のタブーを破り、押さえきれない激しい感情の波に流されていく・・・・
本作は、台詞や音楽は一切なく、字幕も吹き替えすらも存在しない。
登場人物すべてがろうあ者であり、全篇が手話のみによって構成されている。
登場人物の背景や心理的な説明を全て排し、純粋な身振り、表情、眼差しによる表現方法・・・・
(以上、オフィシャルサイトより)
そして監督のコメントとして、
“これはサイレント映画への、役者たちが身振り手振りによって語りかけていた時代へのオマージュである。
『ザ・トライブ』では、私は単純にある別の手段にしたがった。
手話は、まるでダンスやバレエやパントマイムや歌舞伎といったもののようである。
登場人物たちが意思を伝え合う。それだけだ。私はこの言語を魅惑的だと思う。
そして心からこの感覚を観客と共有したかった。”
作品自体が手話だけなので、本来、主人公のセルゲイとか、アナの名前は観ていてもわからない。
ただ、映像を観ながら何をしゃべっているか想像していくだけ。
それでも話の内容はよくわかる。
といっても、やっぱり字幕ぐらいほしいな、と思ったのが正直なところ。
だから、手話のわかる人はもっと深く内容がつかめるのじゃないかと思っている。
そして、映画の中で一番驚いたのは、ウクライナでも一部かもしれないけど、トイレが個室になっていないこと。
女性トイレなんか、個々に戸がなくてしゃがみ便所で丸見え。
隣りとの境は腰ほどの高さで、お体裁ほどに仕切られているだけ。本当にビックリしてしまった。
それにしても、このようなドライでリアルな作品とは夢にも思わなかった。
強烈な印象を受ける映画にまたひとつ出合った、というのが感想である。
ろうあ者の寄宿学校に入学したセルゲイ。
そこでは犯罪や売春などを行う悪の組織=族(トライブ)によるヒエラルキーが形成されており、入学早々彼らの洗礼を受ける。
何回かの犯罪に関わりながら、組織の中で徐々に頭角を現していったセルゲイは、
リーダーの愛人で、イタリア行きのために売春でお金を貯めているアナを好きになってしまう。
アナと関係を持つうちにアナを自分だけのものにしたくなったセルゲイは、組織のタブーを破り、押さえきれない激しい感情の波に流されていく・・・・
本作は、台詞や音楽は一切なく、字幕も吹き替えすらも存在しない。
登場人物すべてがろうあ者であり、全篇が手話のみによって構成されている。
登場人物の背景や心理的な説明を全て排し、純粋な身振り、表情、眼差しによる表現方法・・・・
(以上、オフィシャルサイトより)
そして監督のコメントとして、
“これはサイレント映画への、役者たちが身振り手振りによって語りかけていた時代へのオマージュである。
『ザ・トライブ』では、私は単純にある別の手段にしたがった。
手話は、まるでダンスやバレエやパントマイムや歌舞伎といったもののようである。
登場人物たちが意思を伝え合う。それだけだ。私はこの言語を魅惑的だと思う。
そして心からこの感覚を観客と共有したかった。”
作品自体が手話だけなので、本来、主人公のセルゲイとか、アナの名前は観ていてもわからない。
ただ、映像を観ながら何をしゃべっているか想像していくだけ。
それでも話の内容はよくわかる。
といっても、やっぱり字幕ぐらいほしいな、と思ったのが正直なところ。
だから、手話のわかる人はもっと深く内容がつかめるのじゃないかと思っている。
そして、映画の中で一番驚いたのは、ウクライナでも一部かもしれないけど、トイレが個室になっていないこと。
女性トイレなんか、個々に戸がなくてしゃがみ便所で丸見え。
隣りとの境は腰ほどの高さで、お体裁ほどに仕切られているだけ。本当にビックリしてしまった。
それにしても、このようなドライでリアルな作品とは夢にも思わなかった。
強烈な印象を受ける映画にまたひとつ出合った、というのが感想である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます