『沈黙 -サイレンス-』(マーティン・スコセッシ監督、2016年)を早速、観た。
17世紀、江戸初期。
幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。
日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは、日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。
それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し・・・
(公式サイトより一部抜粋)
30歳の頃、遠藤周作のこの小説を読み、当時、想像もしなかったような衝撃を受けて、その印象が今も残っている。
だから、これだけは観ておきたいと思った。
“隠れキリシタン”に対する、長崎奉行が行う現状を、目の当りにするポルトガル人宣教師・ロドリゴとガルペ。
物語は、そのロドリゴの視点から神の存在を問う。
当然、この作品は娯楽と一線を画する。そして、内容は重く深い。
ということは、観客は受動的ばかりではなく、後で、このことについて少しでも考えなければと思わせる内容である。
「踏み絵」を踏むということ。それは、自分の信仰の主体を踏みにじる行為。棄教・・・。
自分が転ばないために、他人が残酷で悲惨な犠牲になるということの意味は何か。
その時の神の存在。
そして「神の沈黙」。
残酷な、このような状態の時に、なぜ、神は沈黙をしているのか。
究極のこの時、実は、神は沈黙をしているのではなく「沈黙の声」を上げて、信じる人に寄り添っているのではないか、との心の悟り。
やはり、そのテーマは重厚で、この作品はこのようなことを、じんわりと味わえる内容となっている。
しかし、私にとって残念だったのは、期待が先走ってしまって気負い過ぎた結果、本来の映画的評価がわからなくなってしまった。
としても、やはり『タクシードライバー』(1976年)から始まりそれ以降の作品を思い浮かべる時、この力作作品に対し、監督のスコセッシに敬意を表さずにいられない。
17世紀、江戸初期。
幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。
日本で捕えられ棄教したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは、日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。
日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。
それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し・・・
(公式サイトより一部抜粋)
30歳の頃、遠藤周作のこの小説を読み、当時、想像もしなかったような衝撃を受けて、その印象が今も残っている。
だから、これだけは観ておきたいと思った。
“隠れキリシタン”に対する、長崎奉行が行う現状を、目の当りにするポルトガル人宣教師・ロドリゴとガルペ。
物語は、そのロドリゴの視点から神の存在を問う。
当然、この作品は娯楽と一線を画する。そして、内容は重く深い。
ということは、観客は受動的ばかりではなく、後で、このことについて少しでも考えなければと思わせる内容である。
「踏み絵」を踏むということ。それは、自分の信仰の主体を踏みにじる行為。棄教・・・。
自分が転ばないために、他人が残酷で悲惨な犠牲になるということの意味は何か。
その時の神の存在。
そして「神の沈黙」。
残酷な、このような状態の時に、なぜ、神は沈黙をしているのか。
究極のこの時、実は、神は沈黙をしているのではなく「沈黙の声」を上げて、信じる人に寄り添っているのではないか、との心の悟り。
やはり、そのテーマは重厚で、この作品はこのようなことを、じんわりと味わえる内容となっている。
しかし、私にとって残念だったのは、期待が先走ってしまって気負い過ぎた結果、本来の映画的評価がわからなくなってしまった。
としても、やはり『タクシードライバー』(1976年)から始まりそれ以降の作品を思い浮かべる時、この力作作品に対し、監督のスコセッシに敬意を表さずにいられない。
ご無沙汰しております・・・(^^:
映画は観ておりませんが
遠藤周作の作品は『沈黙』というタイトルに惹かれ手にした本でしたが
私も同じように想像もしなかったような衝撃を受け
その印象が今も深く心に残っています。
「人生観を変えた」と言っても過言ではない忘れられない一冊です。
私も、原作の「沈黙」を読んだ時の印象は、本当に強烈でした。
中学生の時、たまたま遠藤周作の「おバカさん」を買って読んで以来、
どちらかと言えば、この作家に馴染み深く、晩年の「深い河」まで気になる作家でした。
(最も、あの狐狸庵センセイ関係の本は、縁がなかったですが)。
特に「イエスの生涯」、「キリストの誕生」などは、感銘深い思いがしました。
優れた作家が亡くなってから、もう20年。
月日の経つのは速いなと感じています。
高校生の時には、クリスチャンの友人がいて、「神とは何ぞや」という議論を下校時の電車の中でしたものです。
この時の問題意識も未消化のまま、現在に至ります。
映画は、日曜日に見てきましたが、私が引きずっている「神の存在」について、混沌としたものが払拭できません。
「信仰と棄教」 私は「転ぶ」ということも崇高な精神ではないか、と思います。
キチジローの生き方も許される生き方なのではないかと、若い時とは異なる思いが湧いています。
「主よ あなたは何故黙ったままなのですか」
この問いかけは、棄教を迫られ、揺れ動く自分自身への問いかけではなかったのか。
アカデミー賞では、撮影賞がノミネートされたそうですね。
タクシードライバーもいい映画でしたね。
映画の記事いつも楽しく読ませていただいています。
「神の存在」は、どのように考えたらいいのか、よくわからない問題だったりします。
他人に加えられる拷問と、自分の信仰心を天秤にかけられて、その決断を迫られる人の苦悩を想像する時、
すがりつくべき神は本当にいるのか、いるのならなぜ黙しているのか、なぜ応えてくれないのか、と、
この究極の問いかけ自体が、神との対話そのものではないだろうかと考えてしまいます。
そして、棄教することの方が、信仰心の問題は別にしても、より人間的ではないかと思います。
実際、棄教が本心であるのか、内心の信仰心は本当に消え去ったのか、そうではなかったなと、ラストシーンで考えてしまいます。
またキチジローも、人間はあのような弱点・欠点を持ち合わせていて当然ではないか、と考えてみたりして、
そうそう簡単には非難できない人物だと思ったりします。
それにしても、このむずかしいテーマを原作にし、今回映画としたことに敬意を持っています。