題名がまた「ヒトラー」かと思いながら、今回のアカデミー賞外国語映画賞のデンマーク代表ということもあって、
その興味から『ヒトラーの忘れもの』(マーチン・サントフリート監督、2015年)を観た。
1945年5月、デンマークはナチスドイツの占領から解放される。
しかし、デンマークの海岸線には、連合軍の上陸を防ぐためにドイツ軍が埋めた、200万個以上の地雷が残されている。
この無数の地雷を除去するために、捕虜であるドイツ兵たちが動員される。
監督に当たるラスムスン軍曹は、彼らがほとんど地雷を扱ったことのない少年兵であることに驚くが、
容赦なく暴力、罵声を浴びせる・・・
地雷を見つけ出すために、這いつくばって、広大な白い浜辺に棒きれを突き刺す。
そして、見つけた地雷から信管を抜き取る。
防御方法もない、正に、死と背中合わせの作業を黙々とする。
少年たちは、飢えに苦しみながらも、除去作業がすべて終わって祖国に帰れる日に希望を託す。
だが仲間は、突然の地雷暴発で、一人また一人と命を落としていく。
ラスムスンにとっては、憎むべきナチスの残党としての少年兵であるが、
その少年たちとの日常の関わりにおいて、
彼らが地雷除去に取り組む寡黙な姿や、仲間をかばい労わる心情を目の当りにし、徐々に接し方が変化していく。
しかしその感情は、一筋縄にはいかない。
この映画には、戦争そのものや戦闘場面は現れない。
が、戦後処理を通じて、戦争とは何かを鋭く告発する。
相手国兵の、それもただ単に戦争に駆りだされたと思われる少年兵に、その罪を償わせることの意味とは何か。
本来、人間は、見知らぬ間柄であっても、知ってしまえば十分に信頼関係が芽生えるはずである。
それを戦争を起こした国どうしは、敵対関係として、相手国の人間との意思疎通を遮断、分断する。
たとえそれが戦後となっても、何らかの形で、いつまでも後遺症としてわだかまりを残したりするのではないか。
その解決方法は、如何になされるべきか。
この映画は、今の世の中に流れる雰囲気を考えた場合、明らかに、いま観るべき作品である。
その興味から『ヒトラーの忘れもの』(マーチン・サントフリート監督、2015年)を観た。
1945年5月、デンマークはナチスドイツの占領から解放される。
しかし、デンマークの海岸線には、連合軍の上陸を防ぐためにドイツ軍が埋めた、200万個以上の地雷が残されている。
この無数の地雷を除去するために、捕虜であるドイツ兵たちが動員される。
監督に当たるラスムスン軍曹は、彼らがほとんど地雷を扱ったことのない少年兵であることに驚くが、
容赦なく暴力、罵声を浴びせる・・・
地雷を見つけ出すために、這いつくばって、広大な白い浜辺に棒きれを突き刺す。
そして、見つけた地雷から信管を抜き取る。
防御方法もない、正に、死と背中合わせの作業を黙々とする。
少年たちは、飢えに苦しみながらも、除去作業がすべて終わって祖国に帰れる日に希望を託す。
だが仲間は、突然の地雷暴発で、一人また一人と命を落としていく。
ラスムスンにとっては、憎むべきナチスの残党としての少年兵であるが、
その少年たちとの日常の関わりにおいて、
彼らが地雷除去に取り組む寡黙な姿や、仲間をかばい労わる心情を目の当りにし、徐々に接し方が変化していく。
しかしその感情は、一筋縄にはいかない。
この映画には、戦争そのものや戦闘場面は現れない。
が、戦後処理を通じて、戦争とは何かを鋭く告発する。
相手国兵の、それもただ単に戦争に駆りだされたと思われる少年兵に、その罪を償わせることの意味とは何か。
本来、人間は、見知らぬ間柄であっても、知ってしまえば十分に信頼関係が芽生えるはずである。
それを戦争を起こした国どうしは、敵対関係として、相手国の人間との意思疎通を遮断、分断する。
たとえそれが戦後となっても、何らかの形で、いつまでも後遺症としてわだかまりを残したりするのではないか。
その解決方法は、如何になされるべきか。
この映画は、今の世の中に流れる雰囲気を考えた場合、明らかに、いま観るべき作品である。
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