私は市井の臨床医で、エリートでもなければセレブでもない。不相応の興味を抱いて「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」(山口周著、敬称略)を拝読した動機は、一見異質な「ビジネス」と「美意識」がどの様に通底するのかと好奇心をそそられたからである。
「グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込む、あるいはニューヨークやロンドンの知的専門職が、早朝のギャラリートークに参加するのは、虚仮威しの教養を身につけるためではありません。彼らは極めて功利的な目的で「美意識」を鍛えているのです。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているからです。」
(光文社叢書891「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」, p14, 光文社, 2017)
「美意識」が次世代の経営戦略となる社会的背景として、本書で指摘しておられる三点は、①論理的・理性的な情報処理スキルの限界、②自己実現的消費への世界市場のシフト、③法律の先を進む社会システムの拡大である。即ち「分析」「論理」「理性」に取って替わり、個人の自己実現や生活デザインを刺激し、さらに自己制御を行う新たな行動規範となるものとして、候補に挙がるのが「内在的に「真・善・美」を判断するための美意識」であるという論旨は簡潔明瞭である。我田引水的に詮ずるところ、これからは与えられた理屈やない、大事なのはおのれの感性を磨いて内なる羅針盤たる「美意識」を持つことやという主旨である。
その「美意識」を養う為に何を行えばよいのか。第七章《どう「美意識」を鍛えるか》において「美意識の鍛え方」として挙げられているのが、絵画を見る、哲学に親しむ、そして文学や詩を読むであった。なおグローバル企業対象の教材としては不適なのか、方法論として日本の古典、伝統芸能・芸術に親しむという言及はない。虚心坦懐にものを見る能力を高める方法として挙げられたVTS (Visual Thinking Strategy)は、前もった情報提供なしに集団で作品を見て感じて言葉にする鑑賞力教育である。見た印象を言葉にする時点で、VTSが従来の「分析、論理、理性」を駆使した方法論からは完全に脱却するものではない。
第七章では、アートを見ることが視診における診断能力を向上させた論文が紹介されている。さらに「ちょっとしたヒントから洞察を得る」こと、即ち患者さんが見せる様々なサインに対する観察眼を鍛える意義が述べられ、医者として大変興味深い。私が軸足を置く医学もまたビジネスと同様に、「美意識」とは深い関係がなさそうに見えるが決して無縁ではない。《実業と虚業》(2017/11/12)で考えを巡らした様に、複雑系の御仁の心を掬い上げる手足指縵網相の如きものを如何に育てる事が出来るか。本書が御指摘になる処の美意識や感性が確実に絡んでくる、医療を遂行する上で欠いてはいけない文化的側面である。
ところで、私の場合は何の花を生けるにしても信奉する流派の生け方が核となる。当然の事ながら他流派に属する御方々もまた、各流派の花が一番美しく、生け花の道に適うと思っておられるに違いない。皆が到達すべき普遍的な「美意識」があり、必然的に導き出される形があるならば、何故これ程までに多くの流派が存在するのだろう。唯一共通するのは花に触発されて感動を得た心である。
ビジネスとは畑違いの頭で考えてみれば、様々な市場において「ええやん(いいね)!」とみなす対象を集約出来ないなら販売戦略の標的は無限に分散する。分散する志向に主導権を握られたままでは費用対効果が宜しくない。審美眼を鍛錬し、その鑑識眼に基づいた商品展開を行なうのは正攻法である。言うならば斉桓晋文における「正」の戦略と言える。一方、“その選択”がステイタスとなる神話を創り上げること、それこそが洗練されたスタイルですと羊さんの我等を追い込んでゆく“洒落た檻”となる「美意識」モデルを提供する展開は、「譎」の戦略と言うべきか。ふと食むのをやめて足元の叢に目を落とせば、しかと選んだはずの草はまたこれも選ばされた草である。