五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする
五月になると思い浮かんでくる花橘の歌は、『和漢朗詠集』、『古今和歌集』夏の部にあり、『伊勢物語』六十段では一つの物語に仕立てられている。現代訳は、五月を待って咲く花橘の香をかげば、昔親しかった人の袖に薫きしめていた香がするである。高校時代、「五月を待つのではなく、五月になれば飛来する郭公(ほととぎす)を待って咲くのである。その花橘の様に自分の訪れを待ちわびていてくれた人を思い起こしているのだ。」と熱く断じる古文の講義があった。世をまだ知らぬ一人の高校生は、五月を待つのも郭公を待つのも何の違いがあるのや、と思いながら分かった風に神妙に席に座っていた。
郭公は初夏の到来を告げる鳥である。時節は巡りふたたび、詠み人は郭公に、そして其の上の想い人は花橘になり面影がよみがえる。かつての逢瀬の一時、想い人が衣に薫しめていた香、その時の言葉や佇まいなど、すべてがいみじく匂い満ちてその身に燻りかかるのであろう。六十段の件であるが、我が許を去り、今や天皇の勅使となったこの身を接待する下の位の祇承の官人の妻となった女に、女あるじにかわらけとらせよ(盃を持ってこさせなさい)と己が到来を知らしめた男は何を得んとしたのか。この後の六十二段はさらに容赦がない。黙して去ぬという選択はなかったのかと惜しむのは私だけだろうか。
むかし、男ありけり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。この男、宇佐の使にて行きけるに、ある国の祇承(しぞう)の官人の妻(め)にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」といひければ、かはらけ取りて出したりけるに、さかななりける橘をとりて、
五月待つ花橘の香をかげば むかしの人の袖の香ぞする
といひけるにぞ、思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける。
(伊勢物語 六十│渡辺実校注:新潮日本古典集成「伊勢物語」, 72-73, 新潮社, 1976)
五月になると思い浮かんでくる花橘の歌は、『和漢朗詠集』、『古今和歌集』夏の部にあり、『伊勢物語』六十段では一つの物語に仕立てられている。現代訳は、五月を待って咲く花橘の香をかげば、昔親しかった人の袖に薫きしめていた香がするである。高校時代、「五月を待つのではなく、五月になれば飛来する郭公(ほととぎす)を待って咲くのである。その花橘の様に自分の訪れを待ちわびていてくれた人を思い起こしているのだ。」と熱く断じる古文の講義があった。世をまだ知らぬ一人の高校生は、五月を待つのも郭公を待つのも何の違いがあるのや、と思いながら分かった風に神妙に席に座っていた。
郭公は初夏の到来を告げる鳥である。時節は巡りふたたび、詠み人は郭公に、そして其の上の想い人は花橘になり面影がよみがえる。かつての逢瀬の一時、想い人が衣に薫しめていた香、その時の言葉や佇まいなど、すべてがいみじく匂い満ちてその身に燻りかかるのであろう。六十段の件であるが、我が許を去り、今や天皇の勅使となったこの身を接待する下の位の祇承の官人の妻となった女に、女あるじにかわらけとらせよ(盃を持ってこさせなさい)と己が到来を知らしめた男は何を得んとしたのか。この後の六十二段はさらに容赦がない。黙して去ぬという選択はなかったのかと惜しむのは私だけだろうか。
むかし、男ありけり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。この男、宇佐の使にて行きけるに、ある国の祇承(しぞう)の官人の妻(め)にてなむあると聞きて、「女あるじにかはらけとらせよ。さらずは飲まじ」といひければ、かはらけ取りて出したりけるに、さかななりける橘をとりて、
五月待つ花橘の香をかげば むかしの人の袖の香ぞする
といひけるにぞ、思ひ出でて、尼になりて、山に入りてぞありける。
(伊勢物語 六十│渡辺実校注:新潮日本古典集成「伊勢物語」, 72-73, 新潮社, 1976)