「廬山は、「風土記之書続」などを命ぜられて、貝原益軒に続く学者だと自慢していたというのであるから、朱子学派の儒者だったのだろう。定良らの意を受けて、南冥兄弟を引きずりおとすべく陰険に立ち動いたらしい。かように上役の顔色を伺って立ち廻ることだけには巧みで、学才は無く、弟子を養成する力もない、というえせ学者は、当今の大学の国文科にもよく居り、古今変わらぬえせ学者の通弊といってもよい。かような連中は、とにかく敵を引きずりおろすためには色いろな理屈をつけるもので、「南冥先生官途ニアリシ日、杯酒ノ小過ヲ以テ、罪ヲ得、其身長ク廃セラレタリ」(『懐旧楼筆記』)八)、と、瑣細な私行にまで難癖をつけて南冥を陥れようとした。」
(解説 亀井南冥│「文人 / 亀田鵬斎 田能村竹田 仁科白谷 亀井南冥」, p337)
「「抑(そもそ)モ先生ノ人トナリ、伸ブルコトヲ能クスレドモ、屈スルコトヲ能クセズ。物ニ克ツニ勇ニシテ己レニ克ツニ怯(おじな)シ。遂ニ千尺の鯨鯢(げいげい)ヲ以テ、螻蟻ニ困(くるし)メラレタリ。豈惜マザルベケンヤ。」(『懐旧楼筆記』)八)というのが、南冥をよく知り、人間世界に通暁していた淡窓の、南冥の一生を総括した言葉である。」
(同, p340-341)
*淡窓:広瀬淡窓 *廬山:加藤廬山 *定良:竹田定良
*鯨鯢(げいげい):オスクジラとメスクジラ
*螻蟻(ろうぎ):オケラとアリ、虫けらの意
亀井南冥先生は江戸後期の荻生徂徠、蘐園学派の儒学者、漢方医である。町医から福岡藩儒医に抜擢され藩の西学問所、甘棠館を主宰した。貝原益軒門下、幕府奨励の朱子学派との対立から突如、終身禁足の処分となり、類焼から甘棠館が灰燼と化した後にも再建が許されなかった。歳寒うして然うして後、松柏の後彫するを知る。政治的に失脚を蒙るとも志は失せず、完成なさった御著『論語語由』は年月を経て秋月藩稽古館から出版された。
タイトルは南冥先生の漢詩《詩榻遷坐》(しとうせんざ)からの詩句である。本詩は首聯「勢交非我素、巧宦伐吾仁」(勢交(せいこう)我が素に非ず、巧宦(こうかん)吾が仁を伐(そこな)う;権勢や利益を得ることを目的の交わりは性分に合わず、上官に取り入らんとすることはわが仁を損ねる)で始まり、尾聯「人生各有適、林臥葆天真」(人生各の適するあり、林臥(りんが)天真を葆(たも)たん;人には各々気に適う生き方があり、私は林間でわが本性を守りゆく)で結ばれている。
参考資料:
徳田武注:江戸漢詩選 第一巻「文人 / 亀田鵬斎 田能村竹田 仁科白谷 亀井南冥」,岩波書店, 1996)
寺師睦宗著:第54回日本東洋医学会学術総会 招待講演「亀井南冥-----その人となりと業績-----」, 日東医54, 1023-1033, 2003
大塚敬節, 矢数道明, 亀井南冥編:「近世漢方医学書集成14 永富独嘯庵 山脇東門 亀井南冥」, 名著出版, 1979
荻生徂徠著, 小川環樹訳注:東洋文庫「論語徴2」, 平凡社, 2009